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五十嵐太郎の原発建築/東大卒業制作作品 [アート論]

建築史/建築批評家の五十嵐太郎(東北大学教授)は、東京大学工学部建築科の出身ですが、その卒業制作は、原子力発電所を東京湾につくって、軸線を皇居に向けたものでした。

その新聞記事が出てきたという事で、メールを頂いたので、転載いたします。

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五十嵐太郎ブログ.jpg

五十嵐です。

21年前にやった原子力発電所の卒計が
当時、『毎日新聞』で取材された記事の
ファイルが出てきました。

原発が、
絶対安全というのなら
東京湾に、
放射線の影響が千年以上続き、
モニュメント化する原子力発電所をつくったら、
という皮肉を込めたプロジェクトです。

去年、
彦坂さんも同席した
京都での卒計イベントで
このはなしをしたとき、
思想地図かぶれの学生に、
原発問題とか、天皇のはなしは古くさいし、
いまは情報化とか、郊外化の方が
重要だと批判されましたが。

アートスタディーズに投稿しようと思ったのですが、
いまSO-NETのアドレスのメールソフトが壊れ、
投稿できないみたいなので、
彦坂さんから投稿してもらえますか。
(このメールはHOTMAILです)

アートスタディズの小冊子/校正中 [アート論]

第19回アートスタディズの小冊子の画像を、

下記に掲載いたしました。

まだ校正中で、未完成です。
画像もさらに追加されます。

ご覧下さい。


AS19_1ブログ.jpg

AS19_2ブログ.jpg



非難する校長2/日本教と原発事故 [アート論]

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校長様

メールありがとうございます。

申し訳ないのですが、校長の言っている事が理解できないのです。

それは、野田秀樹の言っている事が理解できない事と似ています。

さっきまで東京電力会長の勝俣恒久の記者会見を見ていましたが、これも理解できないものでした。

3人とも、私が思考している範囲と全く違っている次元で思考していて、私の方から見ると合理的ではないのです。

3人とも、日本の原発は事故を起きないと思って、その事を強く信じて来ていた人の様に見えます。「赤信号、みんなで渡れば怖くない」という調子で、「原子力発電、みんなで信じれば事故らない」と信じて来た。そして「放射能、みんなで信じれば癌にならない」というわけです。

根本にあるのは、《みんな》です。《みんな》というものを信じるのか、信じないのか?

真面目な言い方をすれば《社会通念》の内側で思考する、という事の是非です。

わたしは「赤信号、みんなで渡れば怖くない」とは考えないのです。《みんな》で渡っても、ダンプカーが突っ込んできて、多くの人が死んでしまうのです。《みんな》で信じても福島原発は大事故を起こしました。多くの人が被爆して、癌になって死ぬのです。《みんな》で信じる事は、危ないのです。

つまり、日本の《社会通念》は異常に見えるのです。

《みんな》が良いと言うサザンオールスターズの音楽を、私には《8流》で良いとは思えません。《みんな》が良いと言う岡本太郎の美術作品はキッチュであって、芸術であるとは思えません。《みんな》が良いと言う人気のある長谷川等伯の国宝の「松林図」も、彦坂尚嘉には《6流》であって、名作とは思えません。若冲の絵画も人気がありますが、彦坂尚嘉から見れば《6流》に過ぎません。

芸術論はともかくとしても、日本社会が信じた原発安全神話に見られる日本の《社会通念》は、異常で、気が狂っていたのです。この一つで全てを判断するのは問題がありますが、しかし、《みんな》が良いと言う日本の《社会通念》は、戦中の神国日本も含めてですが、多くの死人がでる危険な思想であって、私から見ると異様なものなのです。

《みんな》にはむかう事は、戦中であれば非国民という事です。

私は、校長とはちがって、アナーキストの非国民なのです。


そういうわけで、まあ、とにかく、非国民である私は、校長の言うことは全くの日本教的なお題目であって、大政翼賛会的な《領土化》の言葉に読めて、異様なのです。理解できません。

彦坂尚嘉
  


栃原比比奈の額装をめぐって [アート論]



栃原比比奈の新作を京都の画箋堂で額装したのですが、それをめぐって額装の話を彦坂尚嘉がしています。

今日の笑い! [アート論]

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情報出典:christmas1224さんの写真ページ
http://pics.livedoor.com/u/christmas1224/8075334/large

今日の状況を良く表した良い作品だと思います。 今日の笑いというのは、こういうものです。 これを悪い冗談と行って怒ってはだめです。冗談なのは、多くの反対運動を無視して、原発を建設してきた人々こそが、悪い冗談を作り出してきたのです。砂上の楼閣が崩れてきたのです。しかしそれは原発だけではないでしょう、日本人の多くは、多かれ少なかれ冗談のような虚偽を良しとしてきたのです。

喜劇は芸術なのか? [アート論]

1、  喜劇は芸術なのか?


笹山直規さんから、次のようなご質問を個人メールでいただいています。



彦坂様

ブログではロック論でいつもお世話になっております。

さて、実はもう一つお聞きしたかった話題があります。
それは「お笑いは芸術か?」という問題です。

《芸術》というものそのものは、原理的には何にでも接合するものであるのです。ですから《お笑い》にも接合します。つまり《お笑い》と《芸術》は別のものですが、《芸術》と接合した《お笑い》もあるのです。

《芸術》は、原理的に何とでも接合する故に、犯罪との接合は可能ではありますが、しかしこれも原理的に、犯罪の芸術化したものを、「芸術」とは言いません。

それは《芸術》というものそれ自身が、本質的に《原-犯罪》なものであって、個人的な非合法性を社会の中に滑り込ませる技術が《芸術》なのですから、《原-犯罪》という潜在性を失って、明確に社会において犯罪」となったものは、どれほどに芸術的であっても「芸術」であるとは言わないで、犯罪というのです。つまり公然と犯罪であるものは、芸術ではないのです。犯罪になる以前の犯罪性を密やかに潜在させているものが《芸術》であるのです。

古代ギリシアで上演されていた「喜劇」というのものは、もともと「悲劇」と対照しているものでした。ダンテの『神曲』も原題は「神聖な喜劇/La Divina Commedia」であるのであって、実は喜劇も悲劇も、複数の人間の関係である社会の公共性の成立の原理の中にある偽善性/虚偽性と、人間が格闘して行く過程をとらえたものであったのです。ですから《お笑い》は、《芸術》と類縁性がもともとあるものなのです。

言葉の問題があるので、《お笑い》の古典として狂言の雁礫(がんつぶて)を見てください。ここには《原-芸術》《芸術》が成立しています。

あらすじ

狩りに来た大名が一羽の雁を見つける。射ようとしたところ、突如現れた男に雁を持ち去られてしまう。大名は自分が睨み殺したのだから自分のものだと言い張るが男は聞かない。そこへ仲裁人が現れ、大名に今一度雁を射ることができたならば大名のものとしようといい、先ほどの雁を置いて射させる。矢は見当違いの方向へ飛んでいき、男と仲裁人は雁を持って立ち去っていく。 

みどころ

偉そうなんだけどやっぱり偉くない大名と、抜け目のない庶民という対比が面白く描かれた狂言らしい狂言です。狂言に出てくる仲裁人はみな心得た人ばかりで、男に「あの大名が射ることができるわけないだろ」と耳打ちするあたりちょっと賢いようです。案の定、かすりもしないわけで、男達も客席もどっと沸きます。

彦坂尚嘉責任による
[狂言:
雁礫(がんつぶて)]の芸術分析


《想像界》の眼で《超次元〜第6次元》の《真性の芸術》
《象徴界》の眼で《超次元〜第6次元》の《真性の芸術》
《現実界》の眼で《超次元〜第6次元》の《真性の芸術》


《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な表現。
ただし《サントーム》は無い。
固体(=前-近代)表現。
ただしプラズマ/気体/液体/絶対零度の4様態は無い。


《シリアス・アート》《気晴らしアート》の同時表示。
《ハイアート》と《ローアート》の同時表示。
シニフィアンとシニフィエの同時表示。
理性脳と原始脳の同時表示


《透視演劇》と《原始演劇》の同時表示。
オプティカル・イリュージョンと『ペンキ絵』性の同時表示。
【A級美術】である。ただしと【B級美術】性は無い。

《原芸術》《芸術》《反芸術》《非芸術》《無芸術》《世間体のアート》《形骸》《炎上》《崩壊》の全概念梯子が有る。

《原キッチュ》《原イラストレーション》《原デザイン》《原シンボル》の概念梯子が無い。しかし《イラストレーション》性、《デザイン》性は、《シンボル》性ある。だが《キッチュ》性は無い。

貴族の芸術である。しかし大衆的キッチュ性は無い。

作品空間の意識の大きさが《グローバル》である。
《愛玩》《対話》《驚愕》《信仰》《瞑想》という鑑賞構造5つが有る。
情報量が100である。
クリエイティヴである。

さて《喜劇》や《お笑い》は芸術なのか?
《喜劇》そのものや、《お笑い》そのものは芸術ではありません。

たとえば『アドレナリン』『アドレナリン2』というアクション映画がありますが、これは同時に《喜劇》であり、《お笑い》です。が、しかし《原-芸術》や《芸術》はありません。つまり芸術ではないのです。



全てのお笑いが芸術ではありませんが、《原-芸術》や《芸術》である喜劇作品があることは、あります。

いくつか実例を【YouTube画像】でお見せしておきます。


ご存知かと思いますが、松本人志というお笑いタレントがいます。
日本のお笑いを世界に誇れる文化にまで築き上げた功労者であり、
私世代などは、最も影響を受けた人物の一人です。

彦坂さんから見て、松本人志の発想は、ただのお笑いでしょうか?
それとも彼のお笑いは芸術でしょうか?
是非ご一考頂ければ幸いです。


映像が削除されましたが、松本vs若手芸人で、即興でお題に応える「大喜利対決」の私の感想↓
http://ameblo.jp/studio-nega/entry-10580012488.html

車のマドからの手の出し方
http://www.youtube.com/watch?v=grL8L8wI-mY&feature=more_related

入場料一万円ライブでのコント
http://www.youtube.com/watch?v=GH1DP6Sddto&feature=more_related

ビデオ作品
http://www.youtube.com/watch?v=WxFziMTllvg




























芸術と古着/下北沢のBlonde on Blonde [アート論]

下北沢のブロンド・オン・ブロンドというヨーロッパ古着屋さんをご紹介します。ここのオーナーの菅文明さんとのコラボレーションで、ペインティングをしたバッグを作りました。今後もバッグや、さらに上着に直にドローイングした作品などを作って行く予定です。

私自身は、実用美術と鑑賞芸術を同時表示する事に積極的な気持ちがあります。それは両者を分離した《近代》という時代を否定するという気持ちがあるからです。いや、もっと積極的に、情報化社会の芸術は、すでに、実用美術と鑑賞芸術の同時表示で革新的な展開を遂げてきているのです。その代表が、アップルのスティーブ・ジョブスでした。1998年5月に登場したiMacは、芸術作品であったのです。

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《原-芸術》《芸術》性がある。
《超次元》から《第6次元 自然領域》まである。
《非-実体性》がある。


さて、コンピューターのマックと、古着は関係がないと怒らないでください。コンピューターも古着も《実用品》であるという意味では同一なのです。概念というのは、このようにまったく違うものを集合論的に同一に扱う事ができるのです。もちろん、こういう思考の抽象性を受け入れない方もいますが、その方は、頭が直接性に支配されている原始脳の方なのです。理性脳というのは、こうした抽象的な結合を可能にする思考をとり得るのです。つまり人間には原始脳と理性脳の2つがあって、この両方を使わないとうまく思考ができないのです。

実は彦坂尚嘉は、このマックが登場する以前から、実はこの実用美術と鑑賞美術の区分の否定、あるいは統合をもくろんでいたのです。さらに3Dペインティングの可能性を追及していました。という事もあって、今回は菅文明さんのデザインと縫製によるバッグをつくりました。
ペインティングしてから縫っているので、3Dペインティングのおもしろさがあります。これを下北沢のお店に展示していただくだけでなくて、買っていただいた方には、ここから赤い袋に入れて発送していただきます。

将来的には、ミニアチュールの作品の個展を、ここで数回はやりたいとも思っています。アートとヨーロピアン・古着店のコラボレーションです。

Blonde on Blonde1.png

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彦坂尚嘉責任による[菅文明の顔]の分析



《想像界》の眼で《1流から第6次元 》の《真性の人格》
《象徴界》の眼で
《1流から第6次元 》の《真性の人格》
《現実界》の眼で《1流から第6次元 》の《真性の人格》

《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な人格。
ただし《サントーム》は無い。
絶対零度
/固体/液体/気体の4様態をもつ多層的な人格。
ただしプラズマの様態はない。

《シリアス人格》と《気晴らし的人格》の同時表示。
《ハイアート的人格》と《ローアート的人格》の同時表示。
シニフィアン的人格とシニフィエ人格の同時表示。
理性脳の人格と原始脳の人格の同時表示

《原人格》《人格》《反人格》《非人格》《無人格》《世間体の人格》《形骸》《炎上》《崩壊》の全人格梯子が有る。


《原デザイン的性格》《原シンボル的性格》の人格梯子が有る。しかし《原キッチュ的性格》《原イラストレーション的性格》は無い。

貴族的人格が有る。しかし大衆的キッチュな性格は無い。

性格の意識の大きさが《グローバル》である。
情報量が50ある。
クリエイティヴな性格である。
 


彦坂尚嘉のアトラクターペインティングバッグと
            下北沢Blonde on Blondeの紹介

彦坂尚嘉が知る人ぞ知る下北沢の老舗ヨーロッパ古着店ブロンドオンブロンドのオーナー 菅文明氏とコラボレーションしたバッグと、下北沢の菅文明氏を紹介。
 
訂正:彦坂尚嘉の 話の中に神奈川近代美術館と言われているのは、埼玉県立近代美術館の間違いです。訂正 してお詫び申し上げます。

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ブロンド・オン・ブロンドのオリジナル商品として、彦坂尚嘉とのコラボレーションでオリジナルバッグを作りました。

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オンラインショップをのぞいてみてください。


麻生三郎展/建築系美術ラジオ [アート論]

収録日時:2010年12月17日
収録場所:都内某所
収録時間:24分40秒
ファイル形式:MP3形式
ファイルサイズ:11.2MB
PLAY出演者:大谷省吾+藤原えりみ+太田丈夫+糸崎公朗+山口俊郎+栃原比比奈+彦坂尚嘉

東京国立近代美術館で行われた「麻生三郎展」について、展覧会を企画された学芸員の大谷省吾さんをお招きしての批評です。彦坂尚嘉さんは、麻生三郎は晩年になるほど作品がよくなると指摘しますが、その一方で大谷さんから、商品としての絵画として見ると、50年代の赤い絵がもっとも人気があり、価格が高く、それ以降の作品は一般家庭の壁に掛けるには適さないとのお話がありました。また、糸崎さんが汚くてわからないと思った絵を栃原さんが 色がきれいで澄んでいると指摘するという対立に、芸術作品を鑑賞し、理解することの難しさが表れているように見えます。この展覧会は、東京国立近代美術館での展示は終了してしまいましたが、京都国立近代美術館(開催中~11.2.20)と愛知県美術館(11.4.29~6.12)に巡回します。(江藤靖子)

・出演者プロフィール

大谷省吾(おおたに・しょうご)
1969年生まれ。筑波大学大学院博士課程芸術学研究科中退。現在、東京国立近代美術館主任研究員。

藤原えりみ(ふじはら・えりみ)
美術ジャーナリスト。東京藝術大学大学院美術研究科修士課程修了(専攻/美学)。著書『西洋絵画のひみつ』(朝日出版社)、共著:『西洋美術館』『週刊美術館』『週刊 日本の美をめぐる』(小学館)、『現代アート事典』(美術出版社)など。訳書:H・リード『近代彫刻史』(言叢社)、C・グルー『都市空間の芸術』(鹿島出版会)、R・アスコット『アート&テレマティークス』(NTT出版)、M・ケンプ『レオナルド・ダ・ヴィンチ』(大月書店)、C・フリーランド『でも、これがアートなの?』(ブリュッケ)ほか。武蔵野美術大学・女子美術大学・東京藝術大学非常勤講師。

太田丈夫(おおた・じょうゆう)
1954年生まれ群馬大学教育学部美術科卒業。1985年より半透明構造をテーマに群馬県を主にインスタレーション作品を発表「向こう側の視える作品展」など。90年代に身体の半透明性に興味を持ち、古武術の領域を研究。2000年代に絵画を中心に発表を再開。半透明構造が孕む光をテーマにかねこあーとギャリー等で個展。現在は線描を通して量子論的な「図と虚の同時表示」に関心を持ち、探求している。

糸崎公朗(いとざき・きみお) 
美術家。1965年長野県生まれ。東京造形大学卒業。写真家・美術家。「非人称芸術」のコンセプトのもと、「フォトモ」「ツギラマ」などの独自の写真技法による作品を制作。展覧会やワークショップのほか、出版や雑誌執筆など幅広い活動を行なう。主な個展に「"FOTOMO x CITY"Multi-Perspective Sx Editions」(香港藝術中心)、「金沢をブリコラージュする。」(金沢21世紀美術館)。主な受賞にコニカフォト・プレミオ2000年度大賞、19回東川賞新人作家賞など。主な著書に『フォトモの物件』『東京昆虫デジワイド』(共にアートン新社)など。 

山口俊郎(やまぐち・としお) 
美術家。1977年兵庫県生まれ。2001年倉敷芸術科学大学卒業、2003年広島市立大学大学院修了後、2004年~2010年倉敷芸術科学大学非常勤講師を務める。2009年  立教大学大学院文学研究科比較文明学専攻 彦坂尚嘉ゼミ 科目等履修生として単位取得。2008年 アートガーデン(岡山)にて個展

栃原比比奈(とちはら・ひいな) 
美術家。1977年生まれ。2001年多摩美術大学絵画学科油画専攻卒業。2000年より中野区の知的障害者施設のスタッフとして、ダウン症や自閉症、重度の知的障害者などが絵を描くプロセスと作品を研究。2001年よりサンエックス(株)勤務、2004年退社。2010年彦坂尚嘉アトリエ(気体分子アトリエ展)、ギャラリー山口にて個展。 

・関連項目
京都国立近代美術館(開催中~11.2.20)愛知県美術館(11.4.29~6.12)


収録日時:2010年12月17日
収録場所:都内某所
収録時間:17分36秒
ファイル形式:MP3形式
ファイルサイズ:8.05MB
PLAY出演者:大谷省吾+藤原えりみ+太田丈夫+糸崎公朗+
山口俊郎+栃原比比奈+彦坂尚嘉

東京国立近代美術館での「麻生三郎展」の批評の続きです。麻生三郎の独特の赤い画面は関東大震災で焼け出された経験がもとになっていることや、バラバラに構成されているように見える人物像も、実際にモデルをスケッチしていることなどが語られます。この展覧会は、東京国立近代美術館での展示は終了してしまいましたが、京都国立近代美術館(開催中~11.2.20)と愛知県美術館(11.4.29~6.12)に巡回します。(江藤靖子)

収録日時:2010年12月17日
収録場所:都内某所
収録時間:20分41秒
ファイル形式:MP3形式
ファイルサイズ:9.46MB
PLAY出演者:大谷省吾+藤原えりみ+太田丈夫+糸崎公朗+山口俊郎+栃原比比奈+彦坂尚嘉

東京国立近代美術館での「麻生三郎展」の批評です。この展覧会は、東京国立近代美術館での展示は終了してしまいましたが、京都国立近代美術館(開催中~11.2.20)と愛知県美術館(11.4.29~6.12)に巡回します。麻生三郎の作品は特に晩年の作品が賛否両論分かれるようです。しかし、一回見てわかないものも、何度も見ればわかるようになるというお話があるように、このコンテンツを聞いて麻生三郎に対する理解を深めてから、大谷さんのおっしゃるように、晩年の作品が光に満ち溢れたような傑作であるのかを展覧会に足を運んで確かめてみるのはいかがでしょうか。(江藤靖子) 

絵画の起源は身体である [アート論]

絵画の起源は身体である     彦坂尚嘉


「絵画は平面である」という定義の考えが定着しているように思う、

しかしこのような考えは、普遍的なものなのだろうか?
この考えの系譜をたどり、その内容を、まじめに疑ってみたい。
そうすることで、絵画の新しい可能性を切り開きたい。

「絵画は平面である」という主張をした早い例としては、モーリス・ドニの絵画論があります。

「絵画が、軍馬や裸婦や何らかの逸話である以前に、本質的にある秩序で集められた色彩で覆われた平坦な表面であることを、思い起こすべきである」(『新伝統主義の定義』1890年)という主張です。この主張が1890年に行われた事は重要です。この年、ゴッホがピストルで自殺しました。つまり、このような絵画=平面。という主張は、実は新しいものであって、近代特有の絵画論であったのです。

次に大きかったのは、クレメント・グリンバーグの絵画論でした。

グリンバーグは、「モダニズムの絵画」という有名な論文の中で、絵画の固有性は、平面性(flatness)にある。このため、モダニズム絵画は平面性を強く指向した、という主張をしたのです。私は、グリンバーグを立教大学大学院の学生に授業で教えましたが、なかなか理解されなかったように実感しました。それはグリンバーグの理論が、冷戦構造の中で書かれていて、しかも前衛というアヴァンギャルドの存在し得た時代固有の時代のものであったからです。つまり今日では冷戦構造は無いし、アヴァンギャルドも衰弱した時代であり、抽象美術そのものが理解されにくい時代なので、なかなかグリンバーグの理論は分かりにくいものになっているのです。ですから「絵画=平面」という主張も、実は古くなっているのですが、このことは不問に付されて、今日でも疑われずに来ているのです。

この「モダニズムの絵画」という文章が日本に翻訳されたのは、私の知る限りでは1960年代末の講談社から出版された『アートナウ』という現代美術の全集本が出て、その最後の巻に美術理論を集めたものがあって、そこに掲載されていたのです。

つまり日本の中で、絵画を平面と呼び始めたのは、かなり遅かったのです。

まず、「彫刻」という言葉に変わって「立体」という言葉が定着するきっかけは、1969年の毎日現代美術展の時の公募規定に「立体B」という言葉が出現した時からでした。この話は最近、美術史年表制作の専門家である中島理寿氏とも話しましたが、同じ意見でありました。つまり先に「立体」という言葉が一般化して、その後、「平面」という言葉も一般化していったのです。

『美術手帖』の特集号では、1978年2月号に『絵画と平面の相克』という特集号がありました。

この題名からも分かるように、実は絵画と平面は、「相克」ととらえられていたのであって、今日のように《絵画=平面》という定義ではなかったのです。

さらに今日の《絵画=平面》という定義を強化したのは村上隆の「スーパーフラット」という主張でした。(村上隆『SUPER FLAT』、マドラ出版、2000年)

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日本の中で、美術についてまじめな議論をするのは、極めてむずかしいものです。

本稿のように、絵画=平面という主張を疑う作業をしようとすれば、なおさらむずかしいことになります。

そのことは知っているので、ここでの議論も、多くの人には相手にされない事は知っていますが、それでも、まじめに、やらなければならない事情があります。

遠回りして、議論をはじめます。

まず、呪術美術というものがあります。さらにはキリスト教美術とか、仏教美術という言葉もあります。イスラム美術という言葉もあります。つまり宗教美術という呼び名はあるのですが、そういう呼び方は、何を意味しているのでしょうか?

「キリスト教美術」といった場合、キリスト教というものと、美術というものは別のものなのですが、二つが接合されています。つまり《美術》というものは宗教ではないのですが、キリスト教にも、仏教にも、イスラム教にも接合して、「キリスト教美術」「仏教美術」「イスラム美術
」を成立させるのです。言い換えると、《美術》というものは宗教ではないゆえに、どの宗派にも接合しうるのです。だから「呪術」に接合すれば「呪術美術」になるのです。

《美術》というものは、何にでも接合するのです。

「純粋美術」という言葉も、「純粋」というものに《美術》が接合していたのであって、純粋な美術があったのではなかったのです。

つまり「純粋」というのは、実は科学の視点であって、蒸留水のようなものを「純粋な水」であるとするような視点と《美術》が結合してできた言葉なのです。

近代になると、それ以前のような宗教権力が力をうしなって、近代科学が主導する時代になります。つまり近代というのは自然科学の時代なのですが、それは宗教美術が衰えて終わって、違う美術が始まった時代なのです。その違う美術がモダンアートとか、モダンペインティングと呼ばれました。これらは科学の時代の美術であったのです。つまり宗教と《美術》が結合する時代がおわって、《美術》が自然科学と結合する時代になったのです。つまりモダンアートとは、科学美術の時代であったのです。



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