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芸術史における《第200次元》のパラレルワールドと『リアル鬼ごっこ』1(改題3後半に大幅加筆校正6) [アート論]


芸術史における《第200次元》の
パラレルワールドと
リアル鬼ごっこ』

『リアル鬼ごっこ』というのは、山田悠介のホラー小説のタイトルです。

2001年に自費出版本として発行されて、100万部を超える売れ行きになったものです。山田 悠介はこの作品でデビューしたもので、19歳だったというのです。


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自費出版の本が、280万部売れるようになるというのは、すごいものですね。一昔前には考えられない事態と言えます。しかも文章は、ウイキペディアによると山田悠介の日本語表現が誤字・誤用・二重表現・主語の重複など多数で、支離滅裂な文章を書く事が多いということ。そして物語の最後が最初に較べてあっけなく、「竜頭蛇尾」だとする評価もあるというのです。


昔の文学というようなものではないのですね。

この『リアル鬼ごっこ』の原作から漫画も、映画も、ゲームも作られています。私が知ったのは、レンタルビデオ屋で『リアル鬼ごっこ2』を多くの人が借りているのがボックスの空数で目立っていたからです。


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こうしたはやりのビデオのすべてを見ている訳ではないですが、このビデオのジャケットは、第51次元〜第100次元あって、この状態はソヴィエとの社会主義リアリズムやプロレタリア美術の『アートの格付け』と同じなのです。日本ですと、1960年代の後半に出てくる内藤正敏の写真や、森山大道の写真、藤圭子の歌。それと全共闘運動で歌われたワルシャワ労働歌などが、同じ第51次元〜第100次元でした。分かりやすい言葉で言うと『近代の闇』と言われたものです。

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という訳で『リアル鬼ごっこ1』のビデオを借りて見ましたが、話は次のようなものです。

あらすじ (出典:ウイキペディア)
西暦3000年。ある島国の王様は、全国の佐藤を捕まえて処刑する『リアル鬼ごっこ』の計画を発表した。 大学生の佐藤翼(主人公)は新聞を読んでいる最中、『リアル鬼ごっこ』のニュースを知った。 横浜市在住の佐藤翼と大阪在住の妹・佐藤愛の二人は、ゲーム終了まで生き残ることができるのか?

王国の中に住んでいる501万3223人「佐藤」は、王国の兵士、囚人、生物兵器扮する100万人のから追いかけられる。鬼ごっこの期間は、12月18日から24日までの一週間。実施される時間は、このうち午後11時から12時までの1時間。開始はサイレン、終了はベルで全国のスピーカーから女性の声で終了、開始の合図が出される。それ以外の時間は何をしていてもかまわない。鬼ごっこで王国側の鬼に捕まった「佐藤」は極秘処刑場に連行され、処刑される。

 


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この話の設定は、実はこの鬼ごっこだけではなくて、この話の世界はパラレルワールドで、現実に平行する別の世界がたくさんあって、どの次元でも死ぬと、全部の世界の存在が死ぬというものなのです。

この世界のとらえ方、つまり世界の重層性をパラレルワールドとしてとらえる見方は、興味深いものです。つまり現実に平行する形で、違う次元の世界が広がっているのです。

こういう視点や考え方は、決して単なるサイエンス・フィクションの見方ではなくて、実は人間の文明の構造なのです。

人類が、書き文字を発明したときに、まず、こういうパラレルワールドの第一段階が出来上がります。現実の事象を書き言葉に直して記録するという事は、現実を映した鏡像的な記録性なのですが、しかしそれは現実の次元と、文字という次元で写して記録したものでは、平行はしていますが、違う次元性を持っているのです。

彦坂尚嘉の『アートの格付け』で言うと、それは《第6次元 自然領域》と《第1次元 社会的理性領域》の関係なのです。つまり《第1次元》というのは、《第6次元》の写しなのです。


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ロゼッタストーン


つまり《第1次元》とは、書き文字の世界です。つまり社会的理性領域というものの基本は、警察の調書に象徴されるような文字による記録の世界であるのです。

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それは《第6次元》のリアルなカオスである現実世界の写しなのです。警察は調書を取るときに、被疑者を尋問して話を聞き出して、本人ではなくて取調官がその話を書きます。その取調官=警察官は、実は事件を見ていないくて、被疑者や被害者の話だけで、文字を書いて行くのです。その警察官が書いた調書と言う書き文字に、同意を、被疑者や被害者に求めるのです。さらに検察庁にその調書を送って、被疑者と被害者の顔も見ない段階で、まず、その文章だけで事件を判断するのが検事なのです。リアルな現実を見ないで、調書という作文だけで、現実を判断するのです。つまりカオスに満ちた現実から距離をとって、書類だけで現実をとらえようというシステムが、文明の基本にあるのです。

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つまり実際に起きた事件の写しとして、調書という書き文字の列を作成するのですが、それが社会という鏡に映し出された事件の像になるのです。言語というのはそういう鏡の役割を果たしているのです。リアルなカオスである現実世界の鏡像が、文字=調書であるということです。

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この場合、日本語の普通の意味で現実世界と書いたのであって、ラカンが使う用語の《現実界》ではありません。彦坂尚嘉の論理では、この原始的な自然採取の段階では、人間の精神は《想像界》だけしかないのです。

つまり「リアルなカオスである現実世界」を生きている人間たちの認識というのは、《想像界》しかないものなのです。ここにあったのは迷信であり、呪術と神話の世界です。

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この《想像界》の眼での体験を重ねて、その体験の記憶が無意識を形成して行く中で、無意識の圧縮作用によって、人間の体験の記憶が次第に圧縮されていきます。

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その圧縮された体験の記憶が、外部に道具として出されたものが書き文字であるのです。つまり書き文字というのは、人間の無意識の圧縮作用の中で生み出されて、道具として肉体の外部に排出されたものです。書き文字が出現して自立したとき、それは人間の経験の圧縮なのですが、この書き文字が出現=それは石に彫られたり、粘土版に残された文字ですが、この物質的な文字が、人間の精神の鏡の自立として出現することで、これが逆に人間を規定するようになるのです。

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例えばモーゼの『十戒』は、二枚の石板に刻まれているものですが、この書き文字が戒律として人間を抑圧し、縛るようになるのです。この抑圧を悪と感じるのは間違いです。それは同時に呪術という迷信からの解放でもあったのです。《想像界》の中では人間は愛憎や憶測に縛られて、生きる苦しみを味わっていたからです。戒律という《象徴界》の出現は、こうした人間の「苦」からの解放であったのです。

 


古代のエジプトで星の動きを観察して、暦(こよみ)を作ったときにも同様な事が言えて、現実の時間の流れと、暦の上での時間の流れが平行して対応する事になります。記録という《第1次元》性というものは、《第6次元》の自然領域の写しなのですが、写しとして暦(こよみ)を作るときに、秩序が生まれるのです。つまり秩序というのは、写しの中に発生するのです。現実の、ある意味でとらえどころの無い混沌とした時間の流れを、カレンダーという等間隔に並んだ文字の羅列で、平行して記録して位置づけるという鏡像的なパラレルワールドこそが、文明の発生なのです。そして写しであり鏡像に過ぎないカレンダーという暦(こよみ)が、人間の実際の行動を逆に規定してくるというのが、文明なのです。

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法律も同様のパラレルワールドをつくります。現実の世界の混沌とした動きと、そこでの争いを裁判で判断して作ってくる判例の集積が、現実と、法の2重性をつくったのです。イギリスの場合には、こうした過去の判例の集積だけあって、成文法はありません。その方が実は法というパラレルワールドを明確にしているのです。現実の争いの歴史が、判例という文字による記録という写しで集積されて、この記録という鏡像が、現実の争いの決着をつける判断基準になるのです。ここでも現実の写しに過ぎない文字の集積が、逆に現実を規定してくるのです。

裁判というのは、現実の事件とは違う次元で、もう一度事件をシュミレーションして判断するというパラレルワールドなのです。

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こういう文明の構造に、嘘を感じたり、反発をして、文明以前の自然性に回帰したり退化して生きている人々が多くいます。彦坂尚嘉の《現実判定法》では「群れ」という言葉で呼んでいる人々です。この日本にはかなりの数の「群れ人」がいます。特に美術界には多く生息していて、この種の人は、素朴な感覚に生きています。つまり写しという文字の秩序ではなくて、動物としての直接的な感覚と、具体的な小さな人間関係の群れの秩序を重視して生きているのです。

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しかしそれは実は文明の中の自然であるのです。実際の自然の中で自然採取の形で食物を取っていれば、非常に過酷な弱肉強食の原理の中で、飢えて苦しむ事になるのです。ところが現在の「群れ人」は、ぬくぬくとした快適な環境と平和を、当たり前のものとして受け入れ、そしてそれを要求してくるのです。これら文明の中の野蛮人というのは、1人の人間の生き方としては幸せで良いのですが、《群れ》という文明以前の原始段階の人間関係を生きているので、今日の近代国家やグローバルな社会性には適応不全を引きおこすのです。

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まえにも書きましたが《群れ》の代表的な有名人物は、彦坂尚嘉責任による《現実判定法》では、菅直人首相や、鳩山由紀夫元首相なのです。発言が宇宙語であるとか「イラ菅」と言われたり、首相としては調子の狂った判断をするそもそもの原因は、《第6次元 自然領域》の小さな群れを生きていて、それと平行する《第1次元 社会的理性領域》のパラレルワールドを生きていないからです。

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つまり近代国家というのは、実は多くの戦争をしてきた危険でしたたかな帝国主義国家たちであって、そこには軍事のリアリティと、2枚舌、3枚舌のしたたかな外交交渉の主体が必要なのです。そういう悪辣な権力者の英知というものが、これら菅直人首相や、鳩山由紀夫元首相という「群れ人」には無いのです。この二人の能天気な顔を見てください。こういう素朴さでは、グローバルな弱肉強食の世界の中で、日本国家を運営して行く事は出来ないのです。

【この続きは、別のブログ芸術史における《第200次元》のパラレルワールドと『リアル鬼ごっこ』2に書きました。】



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StevCogy

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by StevCogy (2020-02-20 12:17) 

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