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《現実界》について(加筆3) [ラカン用語をめぐって]

加藤豪さんから、次のようなコメントをいただきました。

加藤豪様
コメントありがとうございます。
いま、きちんとお答えする余裕が無いのですが、
一応別のブログに、出してみます。

私自身が、正月にブログに熱中しすぎていて、他の雑務ができていなくて、時間の余裕がありません。つまりラカン用語でも、《現実界》について解説したり語ったりするのが一番難しいのです。

率直に申し上げて、ジジェクと議論をすることは私には可能だと思うのですが、加藤豪さんとこの議論をするのは、かなりむずかしいのです。それは《象徴界》が、加藤豪さんの精神の中に生まれていないように、私から見ると見えるからです。

彦坂尚嘉理論ですと、《象徴界》を否定することで登場するのが《現実界》なのです。ですので、《象徴界》を確立していない方と議論しても、結局はすべては《想像界》に還元されてしまっていて、縮小均衡にまとめられて行くだけなのです。失礼な言い方で、申し訳ありません。お許しください。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

以上のように書いたのですが、申し訳ないので、少し、時間の合間に書いてみます。

彦坂尚嘉様

最近の記事で多く、いわゆる「現実」のパラレルワールドとしての〈現実界〉についての言及がされていて、ここのところ興味深く読んでいました。世界をフラット(想像的に)に見るのではなく、いろんな次元が錯綜する多次元的なものとして芸術家は見るべきだというご意見を理解し共感しつつも、一方、ラカンの用語の〈現実界〉に相当するものが、美術の中で、これまでどのように扱われ、また語られてきたかを批判的に検証してみました。その結果は、私の答えは、彦坂さんのそれとは逆になります。いわゆるジジェクが言う所の「ポストモダンのドクサ」(S・ジジェク『戦争とテロル----〈現実界〉の砂漠へようこそ』青土社、P31)。象徴的な虚構として構築された現実を越えたもの、または外部としての「本当の現実」を直視せよ!と、むしろこれまで多くの人が語ってきたのではなかったのでしょうか。

「本当の現実」を直視せよ!というのは、まったく違います。この言葉が指し示すのは《象徴界》です。このようにとらえることが、問題なのです。

彦坂尚嘉の私見では、《現実界》を指し示すのは、数学的な数式とか、数字です。例えば色の問題で言えば、マンセル色票で、【5R4/14】と指定することです。これはいわゆる真紅ですが、真紅という言葉では、科学的には色は指し示せないという事です。

書き言葉=文字で語っても《現実界》を指し示せない訳ではありませんが、基本は、禅宗が主張したように、それも日本の禅宗ではなくて中国のそれの本来のものである「不立文字」が正しいのです。

しかし絶対即相対であって、「不立文字」を正しいとして一切の思慮分別を断絶してただ黙々と座禅を組むとする黙照禅に対しては、「黙照邪禅」という批判が投げかけられます。

禅宗の「考案」の場合は、言葉が使われますが、それは言葉を使って言葉を否定したものとなっています。ここでも重要なのは否定であるという事です。

つまり実は数字や数式が重要なのではなくて、書き文字の否定が重要なのです。文字を否定したところに出現するものなのですが、物理化学では数式を用います。アインシュタインの一般相対性理論の基本方程式は

G_{\mu\nu} + \Lambda g_{\mu\nu} = \kappa T_{\mu\nu}\,

です。ラカンがやたらに同様の方程式や図式を用いる意図も、文字を否定した認識を伝えようとするカラです。彦坂尚嘉の私見では、禅宗に見られるように、重要なのは文字による認識の否定です。

美術作品で見ると、彦坂尚嘉の《現実判定法》をつかった私見では、黒い明確な線で描かれた輪郭線で表されるイラストレーションが絵画の《現実界》を指し示します。

建築で言えば、建築の図面の線と数字でえがかれているものです。
一軒の建築を見るときに、図面の線で見ている見方が《現実界》の見方であると彦坂尚嘉は考えています。

音楽で言えば、音楽を聴いて、譜面を採取して記譜していくような聴き方です。

この場合でも、基本は《想像界》にあります。《想像界》とは何か? これが分からないと理解を間違えます。《想像界》についての早いに認識は、『荘子』に見られます。デカルトの『方法序説』が、普通の意味での入門書と言えます。そしてこのデカルトの認識を追いかけて厳密化したのがフッサールの現象学です。私自身はフッサールを読んできた人間です。

ともあれ、認識そのものの問題は、実はかなりむずかしくて、修行がいるのです。

その衝動は、現代アートの歴史の中で、果てはチンポムにまで至る大きな流れとして中心的に形成されてきたというのが私の考えです。

チンポムを現実界であるという意味では、むしろ朝青龍とか沢尻エリカの方が《現実界》なのです。そういう議論はできない訳ではないですが、美術で語るのなら、デュシャンの『泉』です。これについて語るのなら、つきあえないではないですが、チンポムというような風化形態で議論する事に、私は意味を見いだせないのです。こういうことは止めた方が良いのです。物事は、原点で語るべきであって、枝葉の風化したものを見て語るべきではないのです。

例えば日本刀ですが、これも平安末期から室町末期くらいまでの名刀で語るのには意味がありますが、それ以降のいわゆる新刀といわれる日本刀で議論しても意味は無いのです。もちろん議論にはいろいろなレベルや形、主題がありますから、一概には言えません。

問題はチンポムまでに至る大きな流れではないのです。ほぼ1969年頃で芸術に於ける創造性としては終わっています。

そのような外部を見る目(または外部からの目)を持つという芸術の側からの特権的主張は、9.11テロを芸術作品として見るシュトックハウゼンの発言により、ジジェクの表現を借りれば、「二○世紀アートにおける〈現実界〉(へ)の情熱のクライマックス」に達します。

この辺の議論も、しても良いですが、時間がかかります。浅く認識しても、犬の糞(ジョージウオーターズの『ピンクフラミンゴ』)のような話になります。美術的には頂点はセラの高温で溶かした鉛を投げた作品であると思います。つまり1969年頃の話題であります。

私もきちんと書かなかったので申し訳ないですが、このブログで私が議論しているメインは、《現実界》を否定して出現する《サントーム》の問題なのです。『ハートロッカー』という映画そのものについても、実はサントーム》として議論したかったのですが、それが手前の《現実界》で止まってしまって、それが加藤豪さんの反応を呼んでしまいました。《現実界》を否定する《サントーム》について議論したいですね。女性監督ということを含めて、良い大衆映画であったと思います。

すみません。時間切れです。また書きます。


しかし、私の考えでは、〈現実界〉とは芸術家が(または芸術の名のもとに)特権的に語るべきものでは元々なくて、むしろそのような特権を主張しそれにすがりつく限りにおいて、芸術は既に根拠を失っていると言えます。
〈現実界〉は、普段のわれわれの日常生活において、ある意味誰にでも見えているものでもあり、それは直視しがたいテロの凄惨な現場や暴力ポルノといった類いに限らず、たとえば今日学校に行きたくない、会社を休みたいと思い、魂がさまよっているような空間時間の体験、そういうところにも、現実界の砂漠はわれわれの眼前に光景として日々垣間見えている筈なのだと思います。そのような時間空間は、誰しもが知っているのであり、芸術家が上から教えるものではない。

そして、さらに重要なことだと思うので上記ジジェクから引用します。

だが精神分析が与えるここでの教訓は、まさにその反対である。精神分析は、現実を、虚構と勘違いしてはならない、というのだ。私たちは、私たちが虚構として経験することのなかに、私たちがそれを虚構化することにおいてのみ維持することができる〈現実界〉の堅い核芯を感得できるようでなければならない。(同書、P31)

つまり、たとえばある女性が、恋愛関係にある私に向かって、あからさまな自分のファンタジーを展いて見せてくるといった場面で、「そんなファンタジーはもうたくさんだ。つきあいきれないないよ馬鹿馬鹿しい。本当のリアルを直視せよ。」などと、もし思わずなじってしまったとしたら、当然の結果として、その恋愛関係は破壊される。
しかし、それは一体何故なのでしょうか。上記のジジェクを参照すれば、彼女が表すファンタジーという虚構を、単に軽いものとして扱ってしまえば、彼女がその虚構を大切にすることによってのみ維持される、本当にリアルな核芯までをも、私は台無しにしてしまう可能性があるということではないでしょうか。そのリアルは、彼女自身にとっても直視できないものであることと平行して、保持されるもの、確かに存在するものであるのだと私は考えます。これは、もっと一般的にも、言えることだと思います。

by 加藤豪 (2011-01-11 06:57)  






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コメント 14

加藤豪

彦坂尚嘉様

コメントさせていただきました拙文に、お忙しい中返答をいただき、ありがとうございます。

ただ、彦坂様は私との議論は不可能とのことです。その理由が「私の、《象徴界》が云々」とあるのを読み、私には彦坂様の数ある異常な言動のこれが一つであるのだと(ここは歯に衣を着せずに言わせてもらいます)、あらためて今確信がされました。ですので、私の側からも議論は不可能と断念するしかありません。

その上で、私のコメントがあらためてこのような形で掲示されましたので、私は自分のこの文に対する解説をする義務を、一応、果たさなければなければなりません。

《象徴界》《想像界》《現実界》というラカンの用語自体については、それほど難しいものではないと、私は精神分析理論のご教示を受けた横浜国大・マルチメディア学科の清田友則氏(『絶望論----知と物欲の不良債権処理』晶文刊)から聞いています。

そして、上記に掲載された私の文の内容の大半は、2001年から名古屋で定期的・継続的に開催されていた、清田氏を中心とする『Absolute Web・精神分析勉強会』で主に議題に上がっていた芸術論の、私なりの要約です。ここにあるのは私のオリジナルの考えというよりは、そこで共有されていた議論内容の私なりの「再解釈」です。共有されているということは、大文字の他者の機能(すなわち象徴界)が少なくとも働いているということです。

念のために、正確を期す為に、議論を主となり導いた清田氏の思想的背景を記しておきます。清田氏は、90年代にアメリカでポストモダニズム批判で知られるフレドリック・ジェイムソンに教えを受け、さらにジェイムソン経由のアドルノの抽象芸術論を主に研究テーマとしていたそうです。それはいわゆる抽象/具象の抽象ではなく、「社会における大文字の芸術の意味を問う」というものであり、氏自身、画廊にもまったく足を運ばず映画はハリウッド映画しか見ないと公言しているほどで、芸術を実物を見ずにまったくの純粋に「言語だけ」で判断するという過激な徹底ぶりです。
私は絵画科卒であり、その立場から、そのような抽象的な芸術論の議論の場に興味を持ち、その議論に一時期急接近したというのが経緯です。
私が興味を持ったのは、ある意味、目が見えなくても言語だけで絵画を見ることができるという観点でした。

一方で、美術作品を幼少時から見つくしてきたと公言する彦坂様のラカンの勉強会というというものがあることを知り、私は興味を持ちました。が、読書会のメンバーに問うても、実際に反応はよくありませんでした。ラカンの概念を用い歴史主義の名の下に芸術作品を格付けし、それ自体がパフォーマンスであり作品だと言っても、そもそも「無時間性」を問うフロイト・ラカンの精神分析に何で歴史主義の下に芸術の格付けなの?というトンデモ理論という扱いで、私はそれを一度判断保留にしました。

実際に彦坂様の書く文章は面白く、バルール的な絵画の見方を排する言説が主流な中、牧渓やラウシェンバーグなどを再評価する視点は、私は面白いと思います。が、ご自身の作品に対するいつもの異常なほどの高評価と、手前勝手な用語の使用を指摘されてもその批判言語には答えないという、まさに大文字の他者を排除したその姿勢は、分裂病者または自己愛性人格障害者の特徴と極めて一致すると判断されても、仕方のないことだと思います。精神分析の観点においては、大文字の他者の排除とは、父の機能の排除(または否認)と考えられていて、私にはこの一つの記事を見るだけでもパフォーマティブにもコンスタティブにも、その特徴がよく表われていると判断しました。

by 加藤豪 (2011-01-12 02:13) 

加藤豪

彦坂様

>《現実界》を否定する《サントーム》について議論したいですね。女性監督ということを含めて、良い大衆映画であったと思います。
>すみません。時間切れです。また書きます。

いえ、これ以上私へのご返答は、結構ですので。

彦坂様には精神分析を学ぶ上で重要な『臨床=運動』という性質への倫理感がまったく欠如していて、ラカンを真摯に学ぶ場としては、ふさわしくないということは判りました。私としては、ご自身が言うところの「美術オタク」の戯れ事としての、一人言語ゲームと察して、黙して通り過ぎることだけに致します。おそらく、誰も「議論」などはできないでしょう。
彦坂様における、大文字の他者の欠如という問題は深刻です。
私はこれを読んでも、彦坂様との意見交換は不可能であるとの私の判断の方は、変わりませんでした。
by 加藤豪 (2011-01-12 11:08) 

ヒコ

加藤豪様
ご批判とお怒りはごもっともと思います。私は、どうしても美術家なので、作品を拝見して判断します。

加藤さんの作品は、大変にうまいし、すぐれているものですが、《想像界》の彫刻です。
平面作品もまた《想像界》の作品です。
http://www.go-kato.com/
http://d.hatena.ne.jp/gokato10/

《想像界》だけの人がいるというような、判断はラカン自身は言っていませんが、私が実際に人間を観察してきている中では、私にはそのように見える方がいるのです。

加藤豪さんが議論しているような《現実界》が本当に分かっている作家なら、現在の状況の中で、作品自体が《現実界》だけのものであっても、不思議ではないのです。しかし現実の加藤豪さんの作品は《想像界》だけの作品です。

今日の現代アートの中には、《現実界》だけの作品を作る人はたくさんいます。ですから、加藤豪さんの作品から判断出来る事は、加藤豪さんは《現実界》が理解出来ていないという事です。作品を見て、加藤さんがご理解なさっている《現実界》という言葉が、《想像界》に還元しているものに、私には見えたのです。

それと今の私に余裕が無いと言う事があります。失礼な対応になったのは、お詫びします。

《現実界》をめぐっては、多くの人とすでに議論をしていて、その中には、加藤さんと同じような判断が多いのです。それで、うんざりしているのです。解説書ではなくて実際にラカンのテキストを少しでも読んでください。

いろいろな人がいても良いですが、私は違う事を考えているので、それを異常とおっしゃるのは良いと思います。しかし私は私の思考を語るしかないでしょう。私以外の意見を聞きたければ、他の人と対話してください。専門家は美術系であろうと哲学系であろうと、私をオーソドックス対いますが、素人衆は、彦坂尚嘉は異常であるというのです。素人というのは《想像界》だけの人なのです。

私のラカンの読書界を批判される事も良いと思います。私は私でやっているだけですし、それは十分なものではありません。彦坂尚嘉がやっているので、美術家のものの見方です。

私も参加している日本ラカン協会の公認の読書界もありますので、そちらに行かれても良いと思います。

そして私も参加さてていただいている福田肇さんのなさっているフランス語でのラカンの読書界にもご参加なさると良いと思います。

両方ともに、日本ラカン協会のサイトの中で、連絡先は見つけられます。

お怒りをまねいたことにについては、私の方に非がありますので、失礼については深くお詫びいたします。
by ヒコ (2011-01-12 11:16) 

ヒコ

加藤豪様

追伸です。

「精神分析を学ぶ上で重要な『臨床=運動』という性質への倫理感がまったく欠如していて」というご批判は、事実に反します。

私は臨床医ではありません。

美術家であります。それと美術史批評をやっているのです。

その私に臨床医のモラルを求められるのは、加藤豪さんの誤解にすぎません。

批評というものは、《想像界》だけの人から見ると、とんでもない悪に見えるものなのです。

だからこそ、批評の自由は、大切なのです。

by ヒコ (2011-01-12 11:34) 

彦坂様

一つだけ追記しておきます。

>彦坂尚嘉理論ですと、《象徴界》を否定することで登場するのが《現実界》なのです。

これについては、ジジェク上記書のお示しした部分に、そうではなく反対であるということが、詳しい例とともに書いてあるので、私の解説よりも、(精神分析に対する倫理感が少しでもあれば、ということですが)、そちらのジジェク本文と、議論されたらいいかと思います。

それでは、私の方こそ、彦坂様の熱心なブログ活動の横やりを入れる結果になり失礼しました。
by 彦坂様 (2011-01-12 11:43) 

加藤豪

彦坂様

たびたび失礼します。が、身にふりかかる火の粉は、払わなければなりませんので。

>私は臨床医ではありません。
>美術家であります。それと美術史批評をやっているのです。
その私に臨床医のモラルを求められるのは、加藤豪さんの誤解にすぎません。

それこそが誤解です。私は臨床医のモラルをここでは語ってはいません。私自身も「臨床医のモラル」などは持ち合わせているとは言えることはできせんし、ジジェク自身も臨床医ではなく純粋な理論家です。本人も、臨床医になりたいなどとは一度たりとも思ったことは無いと述べているぐらいですし。しかし、ラカンは臨床医であり、そこから理論を生み出しました。しかし臨床医ではないジジェクにも、臨床の現場からフロイトやラカンが理論を生み出したということに敬意があるということです。しかし、彦坂様の言説にはそれがありません。
手前勝手な、たとえば「想像界しか無い」「象徴界しか無い」、または「現実界に還元された作品」「象徴界だけではつまらない」等、本当にありえません。また「現実界が分かる」という言い方も。一体彦坂様は誰と会話をされているのでしょうか。それは「自分」です。大文字の他者の不在とは、そういう意味です。このことは深刻すぎて、私の手には負えません。

ラカンが、60年代末の暴力をふるう学生運動の学生たちに向けて「君たちはヒステリー患者のように新しい主人を求めている。そしてそれは成功するだろう」と語った時、実際の患者と接する臨床医の立場を超えて、まさにラカンが自分の言説を社会的なものとして、大文字の他者のもとに送付しようという倫理を持ち合わせていたということがよく感じられます。私が「臨床=運動」と表現したのは、そういう意味です。
by 加藤豪 (2011-01-12 12:40) 

ヒコ

加藤豪様
お怒りはわかります。
しかし私が努力して書いているのは、私にはそう見えるという事です。私感と、私観という言葉も、できるだけ使っています。

たくさんの若い作家の展覧会もつくり、たくさんの人と論争もしていますが、私の立場は、私の個人の感じた事を語っているのであって、それ以上ではありません。

加藤豪さんの作品が、私には「想像界しか無い」ように見えるのです。そして加藤豪さんの人格が、「想像界しか無い」ように見えるのです。書いてきてくださるコメントを読んでも、この事を訂正する必要性を感じません。

そのことは、加藤豪さんの精神が想像界しか無いと断定している事とは違うのです。

実際の加藤豪さんの人格がどうなのかは私には、いかなる手段を使っても知り得ないのです。

それはご本人自身も、自分の性格構造は分かり得ないのです。人間には自分自身はわからないのです。

ただ、私には他人である加藤豪さんの人格が「想像界しか無い」ように見える」ということは、私には事実としてあるのです。この判断は私の私感であり、主観なのです。私がそのような判断をすることは、私の私権に属していて、勝手なのです。

他人がどのように考え、他人がどのように判断するかは、加藤豪さんが支配出来る事柄ではないのです。

「本当にありえません」と書いておられますが、こうしたことは普通に日常的に起きている事です。加藤豪さんには、そうした当たり前の事実が見えないのです。他人の主観を支配出来るものではないのです。

ともあれ、お怒りを招いた事は、お詫びします。しかし私はこのグログで、同じような発言や対応を繰り返ししています。私を批判する2チャンネルもあります。私は私自身をオープンに見せてきているのです。その私に対してアプローチしてきて、私に時間を費やさせているのは、私ではなくて加藤豪さんなのです。ご自分がアプローチしてきたということを思い出してください。

わたしも正直嫌になっているので、今後は《想像界》しかないという人に対して、単に社交儀礼的にあしらって、正直な意見は言わないようにします。社会的な嘘をつかなかったから、加藤豪さんは怒ったのです。私は、これからは《想像界》の人に対しては嘘つきになります。これは今回の教訓としてお約束します。
by ヒコ (2011-01-12 20:32) 

加藤豪

長いご返信をありがとうございます。

しかし、やはり彦坂様の文は彦坂様だけの中での文意が繋がっているもので、大文字の他者の排除(象徴界の機能不全)という深刻な問題をかかえられている方だということ以上の、確認はできませんでした。

>他人がどのように考え、他人がどのように判断するかは、加藤豪さんが支配出来る事柄ではないのです。

支配というこのような妄想が、小文字の他者しか見えない想像的なものの見方です。そして私の文意は分からないのに、私の「怒り」は分かる、という妄想です。しかし、私は彦坂様を想像界しかない人、などと病者のような、異様な表現は、常識としてとてもすることはできません。

しかし、そのようなところに書き込んでしまった私こそ、あらためて自分の非を認め後悔するとともに、彦坂様に謝罪しなければなりません。
by 加藤豪 (2011-01-12 23:42) 

ヒコ

加藤豪様

加藤さんは、ほんとうに良い方だと思います。最初のコメントを読み返しましたが、あらためてそう思いました。純真無垢な方です。

私自身は、64歳で、しかも邪悪な人間です。この差を埋める事はできません。キリスト教では、原罪があると教えます。私は内村鑑三を中学2年で読んでいる男です。

論争を広げたくないので書きませんでしたが、加藤さんがご理解している大文字の他者というのは、まったく違うのです。そのことでまた議論したくないので、その理由は書きません。

まず、ラカンのエクリが日本語翻訳されているの、一つの論文でもよいからお読みなさい。ラカンの主著を読まずしてラカンの精神分析について議論する事は知性の怠惰です。聖書を読まずに、キリスト教徒というようなものです。

加藤さんは、あまりに良き人なのです。その善人性を大切になさってください。
by ヒコ (2011-01-12 23:58) 

彦坂様

純真無垢、たしかに私もそう思います。
そのセリフは、25歳の時に工藤哲巳氏からも真顔でいわれ、さらに声を低めて「僕は、スレているから。」とじっと見つめて言われました。今回が、その2度目の反復になります。3度目は、おそらくないような気がするので、私はこの記憶を大事にしたいと思います。

ラカンのエクリについては、私の精神分析の師である清田友則氏から「読むな」という命令が具体的にされているので、それに従うことを中断する動機が、今の私にはありません。ラカンの他の言説にはある程度はふれています。おそらく清田氏も邪悪な人間であり、彼のポストモダニズム批判の文脈上必要な戦略として、そのような禁止をしているのだと思いますが、私はその邪悪さ自体は嫌いなのですが、私にとってはその転移関係というものが何よりも実は重要なのであり、それは私が工藤さんのことをどんなに嫌いであっても、没後何年たとうとも、その転移関係が継続しているということが重要なのです。

また、もう一つの理由としては、ジジェク自身がラカンのことを最初まったく分からず、婿養子のミレールのラカン解釈を通じて始めて理解できたように、清田氏が提示する順に私が本を読んでいくことには、ここには正当な理があると私には思われるのです。

そして、彦坂様のラカン読解は、私の知識の段階から見ても、率直に言ってトンデモです。

そして、最後に重要なのは、私は本音として、知識を武器として積極的に蓄えたくはないのです。これは、私という人間の中核にあると意識される倫理というか、私だけの私独自の宗教というものなのかもしれません。清田さん自身が私に告げた所によれば、あまりにも知識を蓄えすぎ、人と論争になると頭の上に、こうも、こうもやっつけられると、論理がよりどりみどりに武器のように並ぶそうです。そこには欲望があるのですね。それを遂げたあとに、必ず鬱になると。おそらく清田さんもキリスト者であり、そのような勝利を上げ欲望を昇華したあとの鬱になる自分にこそ、倫理的な自分を感じているようです。たとえば、清田さんは積極的にホームセンターに買い物に行くそうです。そして帰ってきて鬱になる(笑)。それを繰り返す。本を読まずにパチンコ屋に入り浸る。もちろん「高尚な芸術」などに触れずに、「脳が溶けるまで」玉の上下を見つめる。もちろん「儲かるといいな」と思って、ひたすら熱中するわけです。そして、帰ってきて・・・。
救いがない。われわれは救われる資格さえがない。
それが清田友則氏の、『絶望論----知と欲望の不良債権処理』(晶文社刊)に書かれている中心的な思想です。私にはインパクトがありました。
私はこのプロセスを最初から排しようとしてきたところがあります。しかし、ずるくも思えます。
清田さんからは、「加藤さんは浮気とか、しないんですか?いかにもモテそうだけども・・」と、ときどき恨めしそうに問われることはあります。

彦坂さんにも、もちろん私は同じように邪悪さを感じています。
そして、もちろん私はその邪悪さが嫌いです。
しかし、良き人と言われて、そのままでいいのか?という逡巡はその度に発生します。
しかし、私は私個人の倫理というか、大義といってもいいですが、それを変更するつもりはありません。
by 彦坂様 (2011-01-13 01:39) 

ken

どんな人間同士も永遠に見ている視野は重なり合う事はないのですから、思想的に合わない事もあることを承知の上で彦坂さんは「高尚な芸術」も「キッチュ」も批評なさってるのですよ。

私も、二次資料だけで一次資料の価値を鵜呑みにするのはリスクが高いのではと思います。
一次資料の思想が本当に有効であるか無効であるかは一次資料を検証する以外には判断できないでしょう。 
二次資料はラカンの言葉ではないのですから。
by ken (2011-01-13 02:25) 

加藤豪

ken様 ありがとうございます。

>どんな人間同士も永遠に見ている視野は重なり合う事はないのですから、思想的に合わない事もあることを承知の上で彦坂さんは「高尚な芸術」も「キッチュ」も

そうですか。しかし、私はそのような大雑把な論点にはふれていません。

>一次資料の思想が本当に有効であるか無効であるかは一次資料を検証する以外には判断できないでしょう。

私自身は、エクリを無効だと判断したわけではありませんよ。
by 加藤豪 (2011-01-13 03:07) 

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