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芸術の不可能性(動画追加4 加筆3校正1) [アート論]


「共約不可能性」のコメント欄に加藤豪さんが「芸術の不可能性」という、面白いご意見を書いてきてくださいました。コメント全体は長いので、一部を引用します。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
加藤/そこで直面すべき空無を、急いで他のもので糊塗しようというところに、私の考える成熟はありません。今問われるべきは、芸術の可能性、ではなくむしろ不可能性です。それはより具体的には戦略的撤退という格好をつけ続けることの不可能性であり、王羲之を芸術の可能性として説くことの不可能性です。

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加藤豪氏


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
宮川淳は、「芸術の消滅の不可能性」ということを主張して透徹性を示しましました(「アンファルメル以降」という論文だったと思いますが・・・)。

これと対比した時に、加藤豪さんの「芸術の不可能性」という主張は、1人の作家としてのリアリティを持っています。

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『美術手帖』の会田誠特集号(2008年5月号)


それはたとえば加藤豪さんと東京芸術大学で同期であった会田誠の意見であるとすら言えるものです。『美術手帖』の会田誠特集号(2008年5月号)には彦坂尚嘉も参加した座談会が掲載されていますが、そこでの会田誠の発言には、セザンヌも分からないという苦しみが出ています。

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セザンヌ


東京芸術大学を卒業した画家が、セザンヌの芸術性も分からないのです! セザンヌ芸術が分からないのですから、大衆芸術は作れても、芸術は不可能なのです。東京芸術大学というのは美術に於けるアカデミズムですから、グリンバーグが指摘したように、アカデミズム=キッチュであるのです。つまりその教育は、芸術教育ではなくて、キッチュ教育であるようなのです。アカデミズムという意味では日展の美術がキッチュであるように、東京芸術大学もまた、東京キッチュ大学なのです。

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日展=キッチュ

東京芸術大学のアカデミズムには会田誠のようにキッチュ・アーティストを排出できても、《芸術》を生み出す事はできないのです。芸術はアカデミーではなくて、在野の荒地にあるのです。

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会田誠=キッチュ

あらゆるアカデミズムにはキッチュしか無くて、そこには加藤豪さんの言う「芸術の不可能性」だけが存在しているのです。加藤豪さんが、東京芸術大学の出身者であるからこそ、キッチュしか見えなくて、「芸術は不可能」であるのです。

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東京芸術大学=アカデミズム=キッチュ=芸術の不可能性

加藤さんの『芸術の不可能性』を強調する論理は、しかし今日的で面白いと思います。それはアカデミズムの不毛性だけではなくて、今日の美術状況を言い当てているからです。国安 洋の『「芸術」の終焉』や、ハンス・ベルティングの『美術史の終焉』
という主張にも重なるものではあります。


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国安 洋の『「芸術」の終焉』



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ハンス ベルティングの『美術史の終焉?』

国安 洋の『「芸術」の終焉』や、ハンス・ベルティングの『美術史の終焉』という主張が見落としているのは、「終焉」したのは《近代という時代》なのです。ですから《近代》の終焉とともにモダンアートも終焉したのです。それは同時に近代哲学が定義した芸術が終わったのです。これはフランシス・フクヤマの著作『歴史の終焉』にも、厳密には意味が違うのですが、しかし連動している問題です。








《近代》が終わり、《近代芸術》が終わり、《近代哲学が定義した芸術》が終焉しても、なお、美術も芸術も継続して展開して行くのです。宮川淳が言った「芸術の消滅の不可能性」として新しい芸術が屹立してくるのです。

そもそも美術や芸術の起源は、生物の身体までに遡行できるものなのです。私自身はデズモンド・モリスの『美術の生物学』という本に大きな影響を受けています。この本が出たのは1975年で、私の芸術観に大きな影響を与えました。美術史の形成の根拠が生物の内部にあることや、美術の構図の根拠も生物の内側にあるのです。さらに芸術を成立させているものが、自分で自分の作品を鑑賞するという自賞性にあるという主張は刺激的でありました。この事については拙著『彦坂尚嘉のエクリチュール』に書いていますので読んでいただければと思います。

つまり情報化社会においては、新しい時代の芸術や美術が始まっているのです。にもかかわらず、芸術の不可能性という空気は蔓延しているのです。それも事実である事には、私も同意いたします。

しかし『芸術の不可能性』が現実である時に、何故に、ティエリー ド・デューヴの『芸術の名において 』が主張するように、芸術では無いものを芸術の名において語るのですか?

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ティエリー ド・デューヴの『芸術の名において 』

長谷川祐子の主張のようにアートとデザインの遺伝子が入れ替わったのなら、何故に「デザイン」という名で呼んではいけないのですか?

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長谷川祐子企画『 アートとデザインの遺伝子を組み替える
東京都現代美術館2007年から2008年


彦坂尚嘉の芸術分析では、芸術ではないものを、デザインなり工芸なり、イラストであると明示しています。

しかし歴史的な事実としては、《芸術》と《偽の芸術》は混在して作られてきているのです。それどころか《芸術》と《偽の芸術》は銅貨の裏表のようなものなのです。いや、それどころか、芸術というのはきわめて多様なものなのです。それは生物学の示す多様性に似ています。つまり多様な芸術が存在しているのです。もともとが、遺伝子は複雑であったのであり、もともとデザインとアートの遺伝子は混合していたのです。そしてこの多様であるが故に「共約不可能性」が存在しているのです。



美術史や芸術史を丹念に見ると分かりますが、もともと凡庸な作家には、芸術は不可能なのです。それはルネッサンスであろうとも、現代であろうとも、変わりません。

藤枝 晃雄先生も書いておられますが、いつの時代にも芸術があるというのではないのです。たとえばローマ帝国の彫刻には芸術がありません。中世に芸術は、ほとんど見えません。ソビエトの社会主義リアリズムやプロレタリアアートにも芸術はありません。

今日起きている事は、1975年にアメリカがベトナム戦争で破れ、そして1991年ソビエトが崩壊する事で、2つの《近代》が終わったからです。《近代》が終わって、本格的に情報化社会になる事で、2つの事象が起きているのです。一つはギリシアの彫刻を模倣したローマ帝国と同様の文化のアレキサンドリアニズムが起きているのです。グリンバーグは次のように書いています。

 <社会が発展の段階で既成の形式を維持できなくなると、通常アレクサンドリアニズムが生じる。つまり真に重要な問題は放置され、創造活動は細部の技巧に堕し、大きな問題は先例に従うというアカデミズムである。>


しかし全人類の芸術史という視点で見れば、芸術は、宮川淳の指摘の様に芸術の消滅の不可能性を示しているのです。つまり情報化社会でも、情報化社会の芸術が出現してきているのです。

しかし才能の無い凡庸な美術家に、芸術は不可能性として出現するのです。その限りにおいて、加藤豪氏の主張は、正しく現実を指摘しているのです。加藤豪氏の眼で見る限り、芸術は不可能なのです。そのご意見は、面白いし、正直であると思います。









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NY GAL

宮川淳は、「芸術の消滅の不可能性」ということを主張して透徹性を示しましました(「アンファルメル以降」という論文だったと思いますが・・・)。
この言葉が決定的に登場したテキストを特定は難しい。宮川の執筆の仲で、徐々に形成された思考だからです。文献と引用を含めた私の改題

*「影の侵入」『美術手帖』12月号増刊「1966年美術年鑑」
反芸術によって、芸術は日常性に下降しながら、他方「ついになにものにも還元しえないなにかとして残らざるをえない。」つまり、芸術は「不可能性そのものの現前である。芸術がプラクシスたりえないということの真の意味はそこにある芸術はいよいよその影をあらわす。」

*「不可能性の美学」『中央大学新聞』1966年1月11日号
「芸術は……である」から「芸術は……でない」という「否定形でしか芸術について語れなくなっている」状況を指摘し、芸術が「存在することの可能性ではなく、存在しないことの不可能性」として「いよいよ自らをあらわにする」ことを論じる。





by NY GAL (2011-01-23 23:09) 

ヒコ

NY GAL様

コメントありがとうございます。ご指摘いただいた上記の文章は記憶にありませんでした。

おきくぼ画廊が出していた『眼』という機関誌のNO.16号に宮川淳の次のような文章があります。

「芸術を終わらせること、しかし終わる事ができないというその不可能性そのものを芸術として成立させること。」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

これに関連する文章がいくつもあるのですが、思い出せるのを書いておきます。

アラン・ジュフロア 訳=峯村敏明『「芸術」をどうすべきか-芸術の廃棄から革命的個人主義へ 』(『デザイン批評9』1969年)

もうひとつ重要なのがブレーズ・ガランの主張です。ローザンヌ大学の社会学者です。私は影響を受けています。

ブレーズ・ガラン著 訳=小倉正史『「芸術」からの解放 アール・ソシオロジックとはなにか?』

芸術の廃棄の欲望は、実はモダンアート全体に底流として流れているものと、私は考えます。ロシア・アバンギャルドや、イタリア未来派、ダダイズム は無論のことです。しかし1975年以前に見られるこうした《脱-芸術》の欲望は、《象徴界》の芸術、あるいは《象徴界》に追憶的に基礎づけを求める芸術に対する否定です。

それは同時に、デュシャンの「泉」にはじまる《現実界》の芸術への可能性の希求と言えますが、その動きは《反芸術》《非芸術》《無芸術》と展開します。そしてほぼ1969年前後で頂点に達します。そのピークをセラの溶けた鉛を投げる作品だと、私は思います。映画で言えば、ゴダールの映画です。

1975年以降に見られるそれらは、基本的にはそれ以前の《反芸術》《非芸術》《無芸術》という運動のアレクサンドリアリズム化に過ぎません。そのイデオロギー化としてシュミレーショニズムがあったと考えます。シュミレーショニズムの展開の中で、《芸術》は《形骸》化し、《炎上》し、そして《崩壊》していきます。

しかしシュミレーショニズム以後が指し示したものは、《現実界》の芸術=《形骸・炎上・崩壊》を基盤として、その上に《サントーム》を成立させる芸術の登場です。次元的には《超次元》から《第200次元》までの領域への拡大で成立してくる《芸術》です。彦坂尚嘉と気体分子ギャラリーが、芸術運動として追求しているのは、この新しい拡張された情報化社会のサントーム・アートの成立です。





by ヒコ (2011-01-24 00:27) 

nazonazo

反芸術に対しての「芸術が成立しないことの不可能性」はわかりますし、芸術を語る場合は、その語り自体が芸術の何らかの定義に属するので、とくに「芸術」を二重定義する必要はないでしょうが、加藤氏のように「芸術の不可能性」といった場合は、まず前提となる「芸術」を定義する必然が生じるはずです。加藤氏は「芸術」に関してなんら定義をしていないので、おっしゃるところの「芸術の不可能性の追求」ですか? もまったく何をいっているのかがわからない。「不可能性」を語りたいのならまず、「あなたにとって芸術とは何か」を語るべきです。同様に「セザンヌがわからない」というのなら、当事者が考える「セザンヌ」をまず語らなくては、セザンヌの何がわからないのかがわからないことになります。
by nazonazo (2011-01-24 00:55) 

NO NAME

彦坂様

彦坂さんがここで組み立てられた論旨全体が、彦坂さんの自我に都合の良い解釈になっているので、取りかかり方が難しいですが、抜き書きしながらコメントをしてみます。

>加藤豪さんが、東京芸術大学の出身者であるからこそ、キッチュしか見えなくて、「芸術は不可能」であるのです。

ここはもっと複雑です。また、このように語ることに私がいうところの「構造」に立てこもる彦坂さんの自己閉塞性が見てとれます。しかし出身大学に遡って考えることに意味がないわけではありません。会田の場合は分かりませんが、私は元々10代の頃に麻生三郎の南天子画廊から出た初の個人画集を持ち歩いていて、特に晩年に近づくものほど好きでした。まず、そういうものを芸術だと思っていたという事実があります。

東京芸大はキッチュである。そのとおりだと思います。
グリーンバーグの『アバンギャルドとキッチュ』はそれほど興味はなく、しかし、かつて私も一応目を通しています。キッチュがかねてから社会的な優位な位置にあるというのは、それが政治/経済の要請であり、当然だという話です。それを「教養」として今さら声高に訴えなければならない理由は、私の中からは発生しません。

しかし、彦坂さんの中からは発生している。それは何故なのか。それは私の観点からは、繰り返しますが反権力闘争の延長であり、徴候としてはヒステリ−者のそれです。私自身は実はヒステリーを、われわれ現代人が失った敏感さを回復する個的な試み、として重んじるのですが、しかし限界もあります。つまり権力(=ここではキッチュ)に敵愾心を燃やして抵抗しつつ、同時に権力に依存する(つまりキッチュという支配的な主人に延々とこだわる)というどうどう巡りです。

これを2001年以降(または1990年代以降)の世界状況で見れば、アメリカという主人に命もろとも歯向かって突撃したのがアルカイダ(と一応考えられている)であるならば、冷戦時代の対ソ戦略の必要要因としてアメリカに育てられたのもアルカイダであるという、このような循環です。

モダンアート(の高尚の部分)というのも、社会(=主人)からの自立・自律を旨とし、大衆に対して暴力的(その究極を私はミニマリズムだと考えていますが、まあ他でも構いません)であると同時に、そういうどんどん過激化する活動は美術館などの公的機関の庇護のもとにあるということで、ここにも主人に対して依存と抵抗を繰り返すヒステリー的循環が見てとれます。
(いわゆるポストモダンアートについては、モダンの一つの意匠とみなし、私は論じません。)

このような循環は今日至る所にあり、それら総体として私は「芸術の不可能性」が問われるべきだと言っています。

彦坂さんの議論は、それを(意図的にではないでしょうが)矮小化していて、彦坂さんが見えている世界は、私から見れば小さいのです。

私も、芸術は続いていくものだと思っていますが、今はこの循環自体の外部の無さを認識することの方が先だと考えています。
by NO NAME (2011-01-24 01:45) 

加藤豪

名前を打ち忘れました。上のコメントは加藤です。
by 加藤豪 (2011-01-24 01:47) 

nazonazo

加藤様
>今はこの循環自体の外部の無さを認識すること
ということは、循環自体の内部を認識することと同義ですよね。
現代美術における制度上における「構造」の変革ではなく否認とはしかし、美術家を放棄することになりませんか? 同時に「無構造」というものも存在しないでしょう。また、「美術家を放棄するのが現代の美術家」というのならそれも詭弁かと思います。それならば、「現代ニッポンアート」とは「デザインでありエンタテイメントである」という彦坂氏の定義がはっきりとしていると思いますが・・・。でも、長谷川祐子ですか?「アートとデザインの遺伝子を組み替える」とはあらためてアホなことをいってると思いました。こんな方が日本を代表するキュレーターというのも問題で、都現美に血税がつかわれるのも嫌になりますね。官はもっとまじめに芸術(反芸術・無芸術も含めた)の解釈やれ!と思っちゃいました。


by nazonazo (2011-01-24 02:08) 

加藤豪

nazonazo様
>官はもっとまじめに芸術(反芸術・無芸術も含めた)の解釈やれ!

それは無理だと思います。(笑)
そして、高尚運動の行く先ですが、それは、人員を結集したとしてもごくごく少数によるセクトのレベルに留まるのであり、しかも彦坂さんがおっしゃるように洗脳するそばから次々と離反者は続出する、しかもそのような少数(高尚)対多数(キッチュ)のセクト争い自体が、既にお互いの社会的ポストを確保した背景の中でなされるのが実際ですから(主人の席とヒステリー者の席です)、「構造内変革」すら覚束ないのが現状ではないでしょうか。

話はそれますが、私自身は、「美術家を放棄するのが現代の美術家」というパフォーマンスが(あるとして)、それをさして面白いとも思わなく、関心自体は美術内議論よりも、ヘーゲル、アドルノの美学・抽象芸術論(といってもまだ詳しくは読んでいないのですが)の方向に向かっていて、個別の支持対象物(作品)を格付け・論じる高尚対キッチュ論争には、実はそれ自体には興味があるわけではないのです。

ここで言う抽象とは、支持対象物を持たない空虚なシニフィアンのことで、身近なたとえで言えば、政治的無党派層が託す「無党」がまさに空虚であるが故に、他の実体的政党と関与する資格が少なくともシニフィアンの連鎖という記号学的意味で与えられるところの抽象という意味です。
by 加藤豪 (2011-01-24 04:13) 

nazonazo

加藤様

諸諸あるでしょう。が、ひとことでいえば、

日本美術の常識は世界の非常識。
世界美術の常識は日本の非常識。

です。美術のコア部分をマイナーと断じることそれ自体が島国でしか通用しない思考ですので、この国基準の多数派、少数派の考え方はひとたび海外に出た場合、欧米はもちろん、韓国、中国、シンガポールですら非常識なものとなることをお忘れなきよう願います。美術とは啓蒙的なものであり、他国の「美術大衆」なる人々もそれが知りたくてフォローしてゆく核の部分があるという事実をお忘れなきよう。長谷川某さんは海外と国内の二枚舌にして、日本向けと海外向けでいってることが違います。少なくとも納税者であれば官のなめた部分に対しては意見すべきと存じます。日本の構造的体質をあなたのようなチープなニヒリズムをもってあきらめているといった諦観はよくありません。何よりもそれでは美術の国際間競争では確実に敗北いたしますので。低空飛行で安定すべきではありません。そのように考えます。
by nazonazo (2011-01-24 04:54) 

nazonazo様

nazonazo様

たしかに私はnazonazo様と同じ点では、けっして熱くはなりません。あきらめているというのではなく、私の関心はそこには無いと言っています。見えている世界が違うのは、当然だとは思いますが。国際間競争力という視点は無いですね。

しかし正確にお願いします。グリーンバーグは手元にないので。キッチュは直接性というその性質、こうした性質を利用しようとする権力層の支持、経済基盤の要請などから高尚に対して社会的に優位であると(もちろん批判的に)説いたのは、グリーンバーグ自身ではなかったのですか。念の為。
by nazonazo様 (2011-01-24 05:41) 

ヒコ

加藤様

「私の関心はそこには無いと言っています。見えている世界が違うのは、当然だとは思いますが。国際間競争力という視点は無いですね。」

上記、おっしゃっているように、各自によって興味は違っていて《共約不可能性》が存在しているのです。この《共約不可能性》を前提にして話さないと、どうしようもないのです。

つまりコミュニケーションの根底に、ディスコミュニケーションの構造があるのです。

加藤さんのおっしゃるクリンバーグのご指摘は、私は違うと思います。グリンバーグのテキストは、今学期の立教大学大学院で教えていました。ともあれ加藤豪さんと、グリンバーグの解釈をめぐる論争もしたくないのです。

「芸術の不可能性」を探求なさる道を歩まれるので良いと思います。私は、別の道を最後まで歩むのです。
by ヒコ (2011-01-24 11:09) 

加藤豪

彦坂様

ディスコミニケーションについての彦坂さんのお考え、了解しました。

私は上に述べた同じ循環に閉塞するのではなく、「芸術の不可能性」について問うべきではないのか?と私の観点から彦坂様に問いかけただけです。
それについて返答なしということで、特に異論はありません。

私自身が「芸術の不可能性」を探求するというのはありません。
それは彦坂様がご自分の都合で考えた話であるのです。

by 加藤豪 (2011-01-24 11:55) 

ヒコ

加藤豪様

加藤さんの先生であられた故・工藤哲己氏は、インポテンツ哲学を主張されました。インポテンツを日本語で言うと勃起機能障害というようなもので、男性の性機能障害です。

加藤豪さんが問題されている「芸術の不可能性」というのは、アーティストにおける芸術制作機能障害のようなものかもしれません。

私が面白いと思ったのは、「芸術の不可能性」という言葉も、そういう事が問題であるという思考も、聞いた事が無かったからです。何人かに問い合わせてみました。日本でも論じられていないようです。アメリカではそういう事が書かれているかどうか富井玲子さんにもスカイプで問い合わせしてみましたが、アメリカでは読んだ事が無いという事でした。

「芸術の不可能性」というのは、分かりやすく言えば《芸術インポ》です。工藤哲己さん的なテーマではあります。「芸術の不可能性」を主張するアーティストというのも笑えるので、あり得る事ではあります。人々が尊敬するとは思えませんが。
by ヒコ (2011-01-24 20:21) 

nazonazo

芸術は廃棄しようとすれば、あるいは脱領域化しようとすれば、かえって「芸術」それ自体を強化してしまうといった性質があります。宮川氏の論点を、当時東野芳明が「デュシャンは芸術を抹殺しようとしてかえって芸術を強化する結果に終わった」というようなことで決したように記憶します。
同様なことはウオーホルにもいえ、「もうアートはやめた」と主張したにもかかわらず、結局情報化時代の芸術を強化したのはご承知の通りですね。シミュレーショニズムは彼が芸術を強化しなければ現れなかった運動です。つまりウォーホルは反芸術的だったのですが、シミュレーショニストは、そうした既定の「芸術」の是認からこれを再検証した運動でした。その意味でポップ・マニエリズムです。加藤氏の「芸術の不可能性」論は、最低限、宮川の「芸術が成立しないことの不可能性」を通過する必要があるでしょう。でなければただの詭弁ですので、安易な造語はやめたほうがいいと思います。
by nazonazo (2011-01-24 23:05) 

加藤豪

>日本でも論じられていないようです。

いや、論じられていますよ。演劇評論の海上宏美氏が批評紙『クアトロガトス』第1号(2005)で演劇評論の鴻秀長との対談2の中で、「インポテンツとポテンツ、そして純愛」という章で語っています。
(しかし手に入りづらいと思うので少し抜粋します)

海上 可能性があると言うことには努力するけれども、可能性がないと言うことには努力しないんですか?

海上 他者、可能性、不可能性でいくと、不可能性というのを不能・インポテンツという言い方をしましょう。私はインポテンツかどうかって言うと、インポテンツではないんですよ。できちゃうんです。
鴻 何をですか?
海上 セックスをです。だけど不可能性なんて当たり前でしょうということと、セックスができるってことは矛盾するんですよ。
鴻 何故唐突にセックスの話になるんですか?
海上 唐突じゃないですよ。
鴻 セックスをやればいいって話ですか?
海上 やればいいってことじゃなくて、やれてしまうってことです。
海上 性的エネルギーの放出の話です。セックスをやれてしまうにもかかわらず、不可能性が前提であるというように芸術上はインポテンツのふりをする。これが問題なのではないかと。
鴻 芸術的にはインポテンツで、性的にはポテンツな人って誰がいるんですか。
海上 私(笑)。いやそれはピカソって言ってもいいし、フロイトでもラカンでもジェイムソンでも、ウオーホールでも、デュシャンでもそうですよ。そういう人の方が遥かに多数でしょう。今は芸術であろうと言説であろうと一緒くたに喋ってますよ。インポテンツの振りをするな。ポテンツであることを自らに抱え込もうと言ってるんだから。
鴻 全くよくわかりません。
海上 昇華と抑圧は同じ欲動的なものの別の表れですよね。そのとき、抑圧というものと鬱というものとは関係あると思います。それを思想的にはメランコリーと言ってきた。ベンヤミンの問題ですよね。例えばダヴィンチはメランコリーだったという言い方ができる。だから病跡学が成り立つわけです。「天才」というもののメランコリーさ加減を跡付けるのが、病跡学なんだから。そして、メランコリーというものが創作に結びついてきたという流れが近代の半ばまである。しかし、私たちの社会では制作に結びつかないということが露わになってきてるんじゃないですかってことです。
鴻 何故、そういうことが起こるんですか?
海上 消費ということです。倫理規範の低下です。
鴻 消費社会ではなかったがゆえにメランコリーが創作と結びついていたダヴィンチのような人がいた幸福な時代は失われてしまったということですね。だけど、まだよく分からないんです。ポテンツなんて単なる生物学的な問題とは違うんですか。
清水唯史 鴻さんの口から生物学という言葉が出てくるなんて意外です。生物学という科学主義の言葉なんか出してきたら、無時間性の問題なんて問えないし、ギリシア悲劇の話も一神教の話も吹っ飛びますよ。
鴻 つまり、ポテンツは生物学的な問題ではないわけですね。
海上 構造的な問題です。無時間性の中での構造的な問題として捉えなければ、ポテンツなんか言ってもしょうがないわけだから。たとえばオイディプスは親と子の話なんだから。それを生物学的に言うわけですか?
海上 芸術表現上はインポテンツなんだということは近代ではあまりにも自明な前提になっているわけですよね。近代の芸術はインポテンツであると誰もが言っている。
鴻 例えば?
海上 デュシャン以降は全てインポテンツではないですか。別にデュシャンと言わずとも写真以降と言ってもいいし、複製芸術以降と言ってもいいけど。
鴻 芸術家が?
海上 「芸術家が」ではなくて「芸術が」です。
鴻 まだよく分からないです。何故、性的にポテンツでありながら、芸術上はインポテンツであるという差異が起きるんですか。
海上 それは資本主義的分業と、分節化ということが関係してくると私は思いますけど、別様な言い方で言うと、芸術が社会から自立するという芸術至上主義的なもの以降、あるいは芸術のための芸術という枠組み以降は皆、芸術上はインポテンツでしょう。
鴻 残念ながらちょっと理解できません。例えば女性と寝るだとか子供を作るだとかいった具体的な性交渉をデュシャンがしても構わないってことですか。
海上 構わないとは全く言ってないですよ。そういう問題を引き受けるかたちでしか私たちの思考はないんじゃないですかってことですよ。
鴻 インポテンツの作品を作っていて、現実にも女性と関係を持とうとしない・・・。
海上 そんなやつが本質的にいなかったということが問題なわけです。芸術的にもインポテンツで性的にもインポテンツならば、私たちは芸術なんかでこんなに困らないでしょう。
鴻 女狂いの(?)アンディ・ウオーホルは、インポテンツの作品を作っていたけど、それは良くないと言っているわけですか。
海上 そうです。良くないと言っている。モダニズムというものがインポテンツ性みたいなものを留保したと思っています。
鴻 インポテンツ性という担保においてモダニズムが成立していたと。
海上 そういうふうに言ってもいいですね。そしてそのことを、私たちはどういうふうに受け止めて解釈するか問われているわけでしょうね。それをはっきりしろと言っている。
鴻 はっきりって?
海上 だから「廃業」というかたちで。デュシャンは「廃業」したんだと言っていいわけです。デュシャンは「廃業」したんだという解釈をしましょうと。
清水 デュシャンはまさに「廃業」の先駆者ですね。
鴻 デュシャンは「廃業」なんてしてないじゃないですか。何の作品で「廃業」したんですか。
海上 『泉』で、便器で「廃業」したと言っていいと思いますよ。だけど、そのことはベンヤミンが言ってるだとか、写真誕生がそうだとかと、別の言い方で言ってもいい。
鴻 デュシャンは『泉』で芸術家になったんじゃないですか。
海上 そういう捻れがあって、確かに美術史ではそう言われていますね。俺は不能だよということで売りに出したわけですから。
鴻 だけど、デュシャンはインポテンツではない、嘘吐きであると。
海上 だから、嘘の「希望」ということが問題になってくるんですよ(笑)。インポテンツってカッコいいよねーという感じが20世紀を覆っちゃったもんだから。
清水 それがまさに『思想読本1968』(スガ秀実編)の中で丹生谷貴志が書いた、反美術が反芸術ではありえなかったという問題ですね。
中西B そこでインポテンツのポテンツという事態が全面的に現われたのは「アメリカ」だと言えませんか?
海上 そういうレトリカルな言い方ではダメだと思うけど。
中西 でも、「アメリカ」はそのあり方の本質として単性生殖の国でしょう?
海上 でも、現実には単性生殖ということはあり得ないんであって、それはドリー(クローン羊)以降の話だから。そういう言い方では性的エネルギーの問題が見えなくなるから、良くないと思うけど。
鴻 ベケットはどうなんですか?
海上 デュシャン以上にベケットのメランコリーさは批判されなければならないと思っていますよ。ベケットは完全にメランコリーの人だから。
鴻 ベケットとデュシャンとペギーの関係がありますよね。要するに二人は共にペギーを求めるんだけど、ベケットは振られてデュシャンが選ばれベケットが雨にずぶ濡れになって帰っていくのをデュシャンがせせら笑うというあの話ね。
海上 正しい姿勢ですね。デュシャンは。
鴻 どうして?
海上 どうしてって、それを引き受けなければ芸術語ったり、ジェンダー語ったりできないでしょうから。
鴻 ベケットは語っていないと。
海上 語っていないでしょうね。それがベケットの限界だと私は思っています。デュシャンも批判されなければならないが、デュシャン以上にベケットも批判されなければならない。ベケットはデュシャン的なる問題を指し示すことができなかったんだから。
鴻 んー。
海上 鴻さんは嫌がるかもしれないけど、「やっぱり女だよねー」という問題をベケットは明瞭に指し示すことができなかった。デュシャンは恥ずかしげもなく指し示した。
鴻 その方がいいんですか?
海上 そうです。フロイト、ラカンに沿えばそうなるでしょうね。
鴻 で、海上さんは今そういうことをやっていると。
海上 はい。
鴻 よくわからないけど、それが「廃業」以降に海上さんが言っている「純愛」ですか、そうですか、としか言えませんが(笑)。
海上 みんな「純愛」のようなものをつまらないとか、みっともないとか言うけど、つまらないことをやりましょうと言っています。つまんないことを何故やらないのでしょうか。そのつまらないことをやらないのに、「つまらないよねー」とか言うのはどうかな、と。それが私の簡単な意見です。

(以下省略)

by 加藤豪 (2011-01-25 00:05) 

加藤豪

そして、この海上氏の立場に対し、批判も含め、私が現在興味を持っている中心は、こちらの清田友則氏(文化政治批評)の考え方になります。
(事後承諾をあとからするつもりで、個人的にやり取りしたメールを抜粋します。)

>清田さんはかつて文学研究者であったそうですが、僕からしたら、そのような芸術に関する抽象論に興味を持つということの方が、不思議と言えば不思議です。

実を申すと、僕の関心は、文学研究時代のときから一貫して大文字の「芸術」・「美学」論でした。僕の理論的基礎はジェイムソンを通じたアドルノ・ヘーゲル美学で、抽象的理念としての「芸術」の意味を問うものでした。ここでいう抽象とは、指示対象物(=意味=シニフィエ)を持たない空虚なシニフィアンであり、この空虚性をいかに超越論的アウラで埋めるかが、もう一方の抽象理念であるところのネーションとかの対抗理念となります。身近なたとえでいうなら、政治的無党派層が、託す「無党」がまさに空虚であるがゆえに、他の実体的政党と関与する資格が少なくともシニフィアンの連鎖という記号学的意味で与えられます。ここで誤解してはならないのは、アートがシニフィアンとして連鎖的につながる他のシニフィアンは非アートであって、純粋なこの二つの関係の中に個別のアート作品や作家はまさに具体的であるかぎりにおいて(むろんここでいう具体的とは具象アートではなく、あらゆる抽象芸術も、作品であるかぎり含まれます)、含まれないということです。近代アートの行き着く先がデュシャンの泉であることは、その意味で必然的です。しかし、それが単に必然的なものなら論理学の域を超えず、実際、デュシャン以後のあらゆる芸術は応用芸術であり、構造をいかにみえなくさせるかに創造的エネルギーが割かれます。そこに作家の個別性を出せるかどうかは、一方の極には、無味乾燥な歴史性(たまたまこの時代に生まれてたまたまこういうトラウマを経験した、等)があり、他方の極には、理念としてのアート(=中身は空っぽでなければならないというカント的目的なき合目的性)があり、実体としての作品よりも空のほうが絶対的に重んじられる以上、作家Aと作家Bの優劣がたとえ競われても、それはアートの埒外(そこであれやこれや言うのが批評家や学芸員でしょうが、そのそもありもしない芸術理念をそこに適用しようと、途端に安っぽいセクトゲームに成り下がります)に属します。普通人としての僕が加藤さんの関係してくるのもここです。理念としてのアートが空虚なシニフィアンとして普通人と唯一接する場所が(外から見える)美術館やギャラリーです。これは決して皮肉な意味でいっているのではなく、たとえば、日夜食うために生きていく疲弊したサラリーマンの何人かが勤務先からの帰り道に頭のなかでふとよぎる、自分の無意味な人生の彼岸としての美術館といった意味です。ちなみに僕は大学でベタなハリウッドをベタな視点で教えていますが、そこがまずいうのが、僕ら(しがない観客)は、登場人物の誰かに同一化、感情移入して見るという内容的な見方のほうを、もう一つの見方であるところの作り手の側で形式レベルで見る見方よりも優先するというものです。監督よりも俳優のほうが僕らにとって気になるのもそのためです。これをアートに置き換えれば、監督は作家、俳優は対象となりましょう。しかし、モダニズム移行のアートは対象(原則として人物)への同一化を許しません。もっとも、だからといって作家になることの敷居が低くなったわけでもありません。モダニズムにおいて起こったこと、それはただでさえ去勢(作家になれない)されている普通人のさらなる去勢(対象にもなれない)で、この二重の去勢を被った者たちの行き着く場所が、「くだらない」という認識を担保のうえで参加を許される大衆文化です。僕の出発点もここです。「だったら、作家になればいい。別に最初から門戸を閉ざしているわけじゃない」と加藤さんはいうかもしれません。ただ、僕に言わせれば、問題は作家になるかどうかではなく、モダニズムと大衆文化の腑分けは個別の作品受容の問題ではなく、あくまで理念としてのモダニズムの覇権と、それにともなう大衆文化の価値の失墜です。そこを問わずに造形レベルでの問題(おそらくそこには「構造」も含まれます)だけを議論しても不毛だと思います。要は、ウォーホールも三島も海上さんもキッチュの点では同じことです。僕がここに書いた意味での自覚は少なくともポップアート以降のアート(村上隆とか)にはないと思います。僕がアドルノにこだわる理由もそこにあります。

清田

by 加藤豪 (2011-01-25 00:25) 

加藤豪

彦坂様

工藤哲巳の「インポ哲学」については私は何も知らなく、参考文献等あったら、お示しいただければ幸いです。

上記の議論と、なにか関連性があれば、それもお示しいただければと。
by 加藤豪 (2011-01-25 00:38) 

nazonazo

申し訳ないが、上記引用のすべては「美術論」ではないです。
加藤さんは美術家ではないんですか? 美術の範疇で応対いたしたいですね。仮に「美術論」以外で「美術」を語るなら、テキストは無限増殖するでしょうが、ポイントレスな空理を連ねるだけで時間の無駄かと存じます。
by nazonazo (2011-01-25 01:07) 

nazonazo

さらにいうのなら、以上が加藤さんのいうところの「芸術の不可能性」ということの裏付けであるとおしゃるのなら、これは「芸術のデタラメ性」と置換しべきかと存じますね。「芸術の不可能性」はあなたがどう取り繕おうが、わりと「高尚」な主題でまだ面白いのですが、引用でいっていることは三文ジャーナリズムかワイドショーのように下品で、この質では世界はおろか、この日本も動きはしないでしょう。がっかりしました。加藤さんは真面目にこんなことを考えているのですか? まるで広告代理店の徹夜明けの井戸端会議のようですね。つまらない。
by nazonazo (2011-01-25 01:50) 

加藤豪

>nazonazo様

だから、ディスコミュニケーションが最初から問題だったのではないでしょうか。今回の記事では、私の言説が解釈されたわけですから、そういう意味ではないと、それに注釈を重ねているに過ぎません。

しかし、nazonazoさんの
>芸術は廃棄しようとすれば、あるいは脱領域化しようとすれば、かえって「芸術」それ自体を強化してしまうといった性質があります。

については、そのとおりでしょうね。その通りになってきていますし、誰しも知っていることだと思います。それを「芸術が成立しないことの不可能性」と宮川淳氏が定式化したと。

上記の二つの引用は、「美術外」からの言説ですが、それぞれ「美術内」に向けて発信されているのは明らかだと思います。
美術内の私は、例えば海上氏の「モダンアート=インポテンツ」という定式を受け取り、ピカソではなく、リチャード・セラを即座に思い浮かべましたが、おそらく彦坂さんからはピカソやセラの作品は(ポテンツだという)反対の捉え方になるかと思います。
by 加藤豪 (2011-01-25 02:08) 

nazonazo

それなら「芸術が成立することの不可能性」つまり「芸術の不可能性」に関し、わかるように述べてください。加藤さんに私が課すのはその一点です。
迂回、詭弁、複雑化はなるべくやめ、簡潔に要点を語ってくれませんか?
by nazonazo (2011-01-25 02:21) 

加藤豪

nazonazo様

「芸術が成立することの不可能性」は、何をやってもアートの枠内でそれをする限り、アートになってしまうので(廃業宣言すらも?)、必然的にどうどうめぐりの議論になりますよね。

私の言う「芸術のインポテンツ性」とは一つには、モダンアート以降のアートは、「写真の登場」により去勢されているということです。
そして、大衆または美術館といった主人に対し、セラのように抽象的に暴力的に、やればやるほど不能が露呈する、といった意味です。
by 加藤豪 (2011-01-25 02:54) 

nazonazo

>「芸術が成立することの不可能性」は、何をやってもアートの枠内でそれ>をする限り、アートになってしまうので(廃業宣言すらも?)、必然的にどう>どうめぐりの議論になりますよね。

加藤さん(やお仲間)の主張がすべて理解できました。すごく平凡な論理です。論理上の5ステップ一気に飛ばしていきます。
「芸術=モダンアートないしモダンの引力圏の芸術」ということですね。
すると、「モダンアートが成立することの不可能性」をいっている。当たり前です。21世紀ですから。モダンアートは成立しません。仮説的に漫画・アニメが新たな芸術だとする。これは「大衆の支持を得る多数派芸術である」。「(民主芸術としての)大衆芸術が成立しないことの不可能性」ということにすぎない。マスがマイナーより素晴らしいという単なるヒロイズムです。ま、いいでしょう。
だが、これは「お江戸」です。日本でしか通用しない。お江戸的=浮世絵のような芸術が、しかし、ドイツ人によって世界化するジャポニズムのリピートとなります。裏付けとして海外の評価が必要なのです。日本が自律的に芸術を定義できません。「大衆芸術」like会田誠的な、は、しかし、海外での評価の契機をうかがっています。浮世絵のように。ただ、簡単にいいますが、日本を除くあらゆる海外には「大衆芸術=芸術」という思念はゼロです。ポップも大衆芸術ではありません。たとえば、ここが面白いのですが、村上隆は実は本当のことをいいません。アニメ・漫画は実はそのままでは「芸術」にはならないのです。もちろん「大衆美術」というものがハイアートにならないことは知っていると存じます。アメリカのアートの原理(それは絵画的表面の無機質な処理を村上は執拗に行った)にすり合わせつつ「オタク」を表象しなければならない。ここのところの企業秘密に類する部分を村上は隠ぺいしています。本でも触れていません。おそらく彼の商売j上の問題でしょう。ダブルスタンダードなのですが隠しています。
つまり、ジジェクではないですが、日本は民主的に世界に先行している。が軍事を放棄しているため行き過ぎているのです(モラトリアム)。それではだめで、現時点で世界の認知が必要です。
だが、加藤さんは国内の動向のみを問題にして「芸術=モダンの不可能性」といっている、ということかと理解できました。それほど日本人はハイアートがわからない。「空虚」ではないのです、近代美術ですら。デュシャンやウォーホルは濃密な身体性と「意味」そのものです。
彦坂氏の「アートの格付け」は興味深いものです。そのような意味において「意味」を探っており、国際的には正しい芸術観だと思い拝見しております。根本には旧シュルレアリスムを感じます。違っていたらすみません。
そして「非人間的」という近代芸術の本質を有しています。
以上が私の見解です。


by nazonazo (2011-01-25 03:58) 

加藤豪

nazonazosさんが引用された部分は、nazonazoさんが言われたことを親切に反復しただけですよ。これで一気に何が分かったのか?私には全く分かりませんでした。自分自身と会話しているような感じに聞こえますが。まあいいでしょう。

>加藤さんは国内の動向のみを問題にして「芸術=モダンの不可能性」といっている、ということかと理解できました。

国内の動向については、私は語っていませんが。
モダンアートの始まりの時点で「去勢」があったと語っています。

by 加藤豪 (2011-01-25 04:52) 

ヒコ

加藤豪様

「モダンアートの始まりの時点で「去勢」があった」というご指摘は、彦坂尚嘉的には次のように理解します。
 
 ルネッサンス以来の西欧絵画が、カメラオブスキュラを使っていて、カメラの磨りガラスに写る倒立像を裏からトレースしてキャンバスに写して、それに彩色していた。つまり手描き写真であったということと、モダンアートの登場は深く関係しています。
 

18世紀の産業革命は、同時に感光材料の開発であったわけで、カメラオブスキュラと、この感光材料がくみ合わさって、写真が登場します。つまり手描き写真が、感光材料によって化学的自動写真に変貌して、手描きは技術的に古くなって、終わってしまったのです。

このことが、彦坂尚嘉が理解する所の「モダンアートの始まりの時点で「去勢」」という内容です。

比喩で言えば、近代以前は、薪(まき)でお釜(かま)で、火の調子を見ながらご飯を炊いていたのに、電気釜が出現すると、薪(まき)も釜(かま)も不要になってしまったということに似ています。

農業の現場では、自動車が出現して、農業用機械が出現すると、それまでの古い手で使う農機具がみなゴミになって捨てられたという事情を、越後妻有トリエンナーレで山村に入った私は、農民への聞き取調査で調べています。

近代の産業革命が起きると、リテラシー(識字)が変化して、それまでの伝統的な技術や素材が無効化したのは、様々な領域で起きているのです。

つまり「モダンアートの始まりの時点で「去勢」があった」つする認識をもっと拡大して、アートだけでなくて、人間の生活世界全体が変貌したというリテラシー革命の巨大さの中で考える必要があるのです。

つまり人間の存在は、モダンの始まりの時点で、新しい「去勢」にあっているのです。去勢は、人間存在全体であったのです。この視点を欠いて、アートだけで論ずることに、私は意味を見いだしません。

リテラシーの発展交代は、つねに、新たな人間の去勢と疎外を生み出すのです。その事が人類の進歩という事なのです。
by ヒコ (2011-01-25 12:46) 

加藤豪

彦坂様

>去勢は、人間存在全体であったのです。この視点を欠いて、アートだけで論ずることに、私は意味を見いだしません。

この点については私は賛成です。

>リテラシーの発展交代は、つねに、新たな人間の去勢と疎外を生み出すのです。その事が人類の進歩という事なのです。

ここで一つ大事なのは、歴史発展の進行と、同時に存在する無時間性の問題です。近代人(=去勢されて大人になる)にとっての原初の他者(モダンアートについては、私が言う「写真」)との出会いの記憶は、無意識の領域に潜伏し、やがて徴候として現れるというのが私の見方です。
それは、彦坂さんに限らずもちろん近代人すべてにとってのことなのですが、このブログの彦坂さんの頻繁な「写真」の羅列もそのようなものとして私は見ています。

彦坂さんが語る歴史主義は、彦坂さんの自我が語る壮大な物語ですが、彦坂さんの本当の主人であるところの無意識は、「モダンアート」にとっての最初の他者である「写真」との原初の遭遇の記憶が、なんらかの形で表出しているというのが私の見方です。彦坂さんのブログが面白いというのは、その語りとは別に、おそらく人をぎょっとさせる写真の羅列の方にあり、この傑出した過剰さゆえの不可解さと共に耳目を集める理由になっているのではないかと私は思います。原初の他者であるところの写真へ憎しみと、簡単に語れるものではないかもしれません。作家彦坂さんのこのブログも、ご自身によってアートと位置付けられているかもしれませんので、作品としてこれはどういうものなんだろうかと、われわれは考えてみるべきなのかもしれません。

技術としての写真自体は、一方で進化し続けています。近頃はソニーが、動画の中から高詳細の写真を、自分でいい構図のものを選んで取り出せる試作機を開発・発表したとニュースで見ました。構図を構えてシャッターを押すというアーティストの能力も、これからは疎外されることになります。

しかし、その一方で無時間性ということがもっと重要なこととしてある。これを見ないならば、永遠に自らの可能性(たとえばセラのポテンツ)についてのみ言及することができますが、私の考える人類の成熟とはそこにはありません。

まあしかし、その状況が1000年続くか、すでに至る所で徴候が現われているかは、それぞれの見解の違いということなのでしょう。ここでは、私の予測は述べないことにしておきます。
by 加藤豪 (2011-01-25 15:47) 

ヒコ

加藤豪様
ご指摘の無時間性については、別ブログで書きます。
by ヒコ (2011-01-27 12:07) 

nazonazo

どうにも用語と概念の混同と錯誤が激しいと存じますが、ただひとつラカンの「去勢」を性的・身体的な意味の「陽根切除」や「不能」と混同するのは著しい誤りなので、申しあげておきます。
by nazonazo (2011-01-27 15:57) 

加藤豪

私は去勢をもちろん象徴的な使っていて、身体的な意味で使っているのは私ではないので、よろしくお願いします。

あと、セクト争いの意志なども無いので、その点も。では。
by 加藤豪 (2011-01-28 02:03) 

ヒコ

nazonazo様

こういう事を言うと怒られそうですが、中国の宦官や、古代ギリシア・ローマ〜東ローマの宦官、イスラム諸国の宦官というのは、権力を握る高級官僚になるためのもので、こういう事実と、ラカンの理論における去勢の意味が、まったく無縁というものであるとは、私は思えないのですが。むしろ同根であると考えた方が良いとさえ思っています。
by ヒコ (2011-01-28 04:10) 

StevCogy

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