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人類史の《近代化》をどうとらえるのか(改題加筆6画像追加10削除1) [歴史]


彦坂様

ご丁寧な解説痛みいります。

>中国は近代を通過したのか?
ですが、前に中国現代美術評論家と話したところ、「中国には近代はなかった」といっていました。

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彼らにとって近代化とは西欧化であり、中国は西欧化するつもりはないとのことで、システムは利用するが精神的に欧米化することはないという話でした。

「女囚701号」にある原始性は、コミンテルン的思考で解釈できないのではないでしょうか? そういえば以前吉本隆明さんが、「ボードリヤールは日本をかいかぶっている。実はアフリカに近い場所だと思う」といってましたが、システムとしての近代の波はかぶったとしても、西欧合理主義的な近代主義、またはユマニズム的な近代主義は日本ではマイナーなものだったと感じてしまいます。原始性が強い場所で、「女囚」の映画も原始人的に見えます。 

by nazonazo (2011-02-14 02:17)  

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《第6次元 自然領域》              《第1次元 社会的理性領域》


nazonazo様

お返事ありがとうございます。
「近代化とは西欧化である」というお考えは理解できます。多くの人々がそのように考えているのは事実でしょう。そういう考えはあると思います。私自身はそういう考えも、尊重します。

しかし「システムは利用するが精神的に欧米化することはない」というような言説と、《近代化》という次元は同じなのでしょうか。中国は航空母艦を建造していますが、航空母艦を動かす精神に、欧米と中国の差があったとしても、それがどれほどの意味があるのでしょうか?そいうう言い方は、日常の挨拶程度の会話のレベルであって、学問の水準ではありません。

吉本隆明が「ボードリヤールは日本をかいかぶっている。実はアフリカに近い場所だと思う」というのは理解できますが、しかし地政学的にはアフリカと日本は遠い国です。経済的に見ても、日本は高度成長経済を成功させて世界2位の経済大国であったのであって、それをアフリカの国々と同様だというのは、比喩以上の意味があるとは思えません。吉本隆明はだいたいで、いいじゃない。』という本を大塚英志と一緒に出していますが、厳密な思考者としては信頼できない思想家です。私自身は30年以上読んできていますが、吉本隆明や柄谷行人には深い失望をもっています。

私は別の考えをとるのです。考えというものは一つではなくて、いろいろな考え方があるのです。新しい考え方をしてみたいと私は思いました。つまり「近代化とは西欧化である」という説明や定義とは別の考え方があるのではないか? と思ったのです。

なぜに別の考えを必要とするのかというと、「近代化とは西欧化である」とすると、《近代化=西欧化》という定義ですから、「ローマ帝国の時代も《近代》である」ということになります。

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「ヨーロッパの中世時代もまた《近代》である」という不思議な定義なのであって、そういう粗雑な定義を鵜呑みにはできないからです。

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つまり日本や中国というアジアの社会通念として「近代化とは西欧化である」と言うことはできるのですが、ヨーロッパの内部で議論する時には「近代化とは西欧化である」とは言えないのです。つまりヨーロッパの内部で「近代化」というのは、別の議論をする必要があるのです。

別の考え方があるというのは、「近代化とは西欧化である」というアジア的な社会通念を否定しているのではないのです。また議論や論争をしようというのでもないのです。単純に、人間がものを考えるのには、いろいろな考えがあるのであって、一つではないと思うという事です。

だから私は別の考えを開発してみたかったのです。ただそれだけです。つまり定義や真理が一つであるとは考えない立場です。多様性を認めるのです。私は多様性を追求しようと考える人間なのです。

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私は全人類の歴史というものを構想します。つまり西洋とか東洋という誰もが自然にもっている区分を、一度カッコに入れて、歴史を見てみようと思うのです。中国や、日本という近代の国民国家の内部に依拠する思考パターンも、一度カッコに入れて歴史を見てみようという態度です。このこと自体も他人の抵抗を生む思考ですが、しかし思考の多様性を私は追求しているのです。思想や信条の多様性を認めない方も多いのですが、そのぶつかり合いは不可避だと考えます。つまり思想・信条・思考の自由を弾圧する人とは戦うという事です。


「カッコにいれる」というのはフッサールという哲学者の手法です。フッサールというのは「現象学」という新しい哲学を確立した人です。その根底には、数学基礎論というものがあります。つまり数学の基礎を考えるところから始まって、フッサールは様々な学問の基礎付けを問題にするようになるのです。分かりやすくするために意訳すると、フッサールは数学的な思考から哲学を組み立て直した人です。

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フッサール

数学的な視点から思考を組み立て直すというのが、実は近代哲学においては重要な事なのです。数学的な視点をとるということは、その前の宗教的な哲学思考という伝統の外に出る事を意味します。数学的な思考というのは、実は自然科学の基礎を作っているものです。つまり今日の複雑系科学の時代から見ると、自然物理科学を軸とする近代科学とは、数学的な思考の上に組み立てられたものなのです。

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そのフッサールの現象学の手法に、「現象学的還元」というものがあります。それが「カッコにいれる」という手法で、「エポケー」と呼ばれます。この「エポケー」によって、現象学は普通に生きている上で誰もがもっている「自然な見方という固定概念」を完全に打破しようとします。

なぜに「自然な見方」ではだめなのか? それは自然的な態度で生きて思考すると、迷路に入りやすく、多くの間違いをするからです。

自然的な態度をカッコに入れて、現象学的判断中止するということは、人格の変化を起こす力さえあるものであって、徹底した自己懐疑と反省的直観に入ることが「エポケー」なのです。

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彦坂尚嘉は、1967年くらいから現象学に触れて、1969年に刀根康尚氏と共に現象学研究会を組織して10年弱、フッサールの主著を読んできました。最初の本が『現象学の理念』でしたが、これが難しい本でした。

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つまり、普通の考える歴史の常識の外に出て、考え直そうという彦坂尚嘉の態度は、フッサールの現象学的な還元という「エポケー」の手法を歴史認識に適用したものなのです。

人類の歴史の変容を考えようという視点が彦坂尚嘉の歴史観です。つまり人類の歴史を《様態変化》であるとして見ようという考えです。これは誰かの影響ではなくて、自分で考えた独創であると本人は思っています。《様態変化》というのは、物質は「固体←→液体←→気体」というふうに温度によって、その状態を変えます。この様な《様態変化》として人類の歴史を見ようというものです。

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水のH2Oというものは、固体状態では氷です。氷の状態にある歴史は、氷河のようにゆっくりと流れます。この状態が、人類が定着して農業を始めた農業革命以降の農業化社会です。分かりやすく言えば封建社会の時代の歴史です。

それに対して産業革命が起きると温度が上がって、氷が溶けて水になって、川となって歴史が早くに流れるようになります。これが《近代》です。つまり産業革命が、社会が近代化する上で重要だと考えます。日本の明治維新というものは、この視点だけで見ると産業革命を導入して、社会が変貌して行きます。この変貌を、イギリスから始まった産業革命の波及という視点で見ようとする立場が、彦坂尚嘉史観なのです。つまり日本に産業革命の波が波及して、日本の社会が変貌して行ったのなら、それは日本も《近代》化したということができると考えます。

したがって、現在の中国も、産業革命がなされているかどうかで、判断されるという立場です。彦坂尚嘉の私見では、イギリスに始まった産業革命の波動は、中国にも到達しているのです。したがって、その限りで、中国は遅れて《近代》化されてきているのです。

現実には、固体、液体、気体という3様態は、さらに、絶対零度の状態と、プラズマ化の様態が加わって、5様態で分析されます。そしてこの5様態は、混在して存在しているのです。つまり《近代》の時代にも、前近代の固体の思考をする人はいるのです。つまり《近代》化されるというのは、全てが近代化されるのではなくて、反動による原始化も含めて、多様性は増すのです。

自然採取の原始状態は、彦坂史観では、《絶対零度》の状態と言うことになります。ご指摘の「女囚701号さそり」は、表現としては《絶対零度》の状態に還元されているものであって、原始状態の表現であるのです。

こうした《絶対零度》の作品は、美術作品で見る限り、私が探した限りでは、岡本太郎の1949年の「重工業」という絵画が初めてです。それ以前の弥生時代までの日本美術には、こうした原始美術は、今の所見つかっていないのです。それだけで考えれば、こうした原始的な表現の出現が、戦後特有の現象であるのです。

原始的な表現があるからといって、《近代》が成立していないとは言えないと、彦坂尚嘉は考えます。温度による様態変化で見れば、日本は明治維新以降、人類史における歴史の液体化に巻き込まれてきているのであって、ほとんどが液体化されてきています。

1964年の東京オリンピックの次期くらいで、日本の伝統的な自給自足農業の形態は破壊されて、産業革命の波を浴びて、農業技術が機械化されます。

もう一つ重要なのは、日本の市町村の廃置分合です。明治の大合併、昭和の大合併、平成の大合併によって、日本の《村》社会は解体されてきています。社会の根底の基盤が、否応もなく《近代》の暴力によって、液体化の変貌をとげているのです。


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nazonazo

彦坂様

御説かねがね通読いたしております。
まず、西欧化とは字義通りの意ではなく狭義には「産業革命以降」、広義には「ルネサンス以降」が近代と定義づけております。
中国の批評家がいったのは、「前近代(非西欧状態)」「近代(西欧化)」「後近代(西欧化からの離脱)」としたなら、中国は「前近代」~「後近代」と接続するという意味でしょう。「後近代」」には形骸化した(つまり発展史観ではなく、システム史観としての西欧はあり)近代があるということだと思います。実際中国のアートは現在そのようにしてある。日本は幕末などという保守反動革命を行ったために妙な100年を送ってきたのだと思います。
簡単にいってしましますが、天皇制のへその緒がついた精神では「オカルト国家主義」であって、精神の近代はもたらされなく、その「オカルト性」が「呪術」ベースのアフリカと似ていると吉本氏はいっていたのです。
だからこそ日本にはハイアートは定着していないし、おそらく今後も定着しません。
韓国の美術家が、「首相と天皇の2つの何者かがいる日本の精神風土はアジア人から見た場合滑稽に見える」といっていました。
それからソビエト主義は近代かどうかは少なくとも美術史上はわかりません。いわゆる「近代美術」のなかに左翼史観は不可欠だとは思いますが、ソビエト主義はそれかどうかは分からず、「アヴァンギャルドとキッチュ」からすればそれらはキッチュに属するというのが見解です。

べつに多様な意見は認めますし、彦坂論も興味深く拝見しておりますが、そんな感じでございます。
by nazonazo (2011-02-17 15:23) 

cheese999

深いですね。ざっとしか読んでませんがー。
グローバル化の名のもとに均一化せずに多様化、違いを楽しむ社会になって欲しいですね。ディズニーランドに行ったことがないだけで、仲間外れになってしまう日本って。。。
by cheese999 (2011-02-17 21:50) 

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