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《第200次元》の映画/ハート・ロッカー(改題) [映画]



この『ハートロッカー』という映画は、今日の私たちが生きる空間を、イラクの日常的な戦場をとおして、正確に、描いていると思いました。

アメリカが作った戦争映画を、少なからず見てきましたが、今までに無い外部性=現実界を描いた作品です。

この映画を見る前と、後では、日本の現実を見る目が変わったのです。ラカン用語を使えば、私たちの日常の都市空間が現実界であるということを了解したのです。

もっともこんな事を書くと、「現実界」と言う言葉の使い方がラカンと違いすぎるという、いつものご批判を受けるでしょうが、この映画に出現しているイラクの街は、まさにラカン的な意味での現実界であって、いつ狙撃されるか、いつ爆弾が爆発するか分からない緊張に満ちている街なのです。

はじめ、この映画をレンタルビデオ屋から借りてきて見たときに、ビデオカメラで撮影したのかと思ったのですが、実際には16ミリカメラ4台で撮影したとの事。

第82回アカデミー賞:受賞
作品賞、監督賞、オリジナル脚本賞、編集賞、
音響効果賞、録音賞

第63回英国アカデミー賞:受賞
作品賞、監督賞、オリジナル脚本賞、編集賞、
音響賞、撮影賞

ハリウッド映画祭:監督賞、ブレイクスルー男優賞

ゴッサム賞:作品賞、アンサンブル演技賞

2009年ナショナル・ボード・オブ・レビュー:ブレイクスルー男優賞

第35回ロサンゼルス映画批評家協会賞:作品賞、監督賞

第75回ニューヨーク映画批評家協会賞:作品賞、監督賞

ボストン映画批評家協会賞:作品賞、監督賞、
主演男優賞、撮影賞、編集賞

第44回全米映画批評家協会賞:作品賞、監督賞、主演男優賞

第14回サテライト賞:作品賞 (ドラマ部門)、
主演男優賞 (ドラマ部門)、監督賞、編集賞

全米製作者組合賞:作品賞

全米監督組合賞:作品賞

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賞を104も受賞しているにも関わらず、実は16ミリカメラで撮影した低予算映画で、Bクラスの映画なのです。貴族映画ではなくて、大衆映画です。

そして
彦坂的に言うと、この映画は《超次元》から《第200次元》まである、極めて今日的な映画であったのです。

『アートの格付け』

彦坂尚嘉責任による[映画ハートロッカー]の芸術分析


《想像界》の眼で《超次元〜第200次元》の《真性の芸術》
《象徴界》の眼で《超次元〜第200次元》の《真性の芸術》
《現実界》の眼で《超次元〜第200次元》の《真性の芸術》


《想像界》《象徴界》《現実界》《サントーム》の4界をもつ重層的な表現。
プラズマ/気体/液体/固体/絶対零度の5様態をもつ多層的な表現。


《シリアス・アート》《気晴らしアート》の同時表示。
《ハイアート》と《ローアート》の同時表示。
シニフィアンとシニフィエの同時表示。
理性脳と原始脳の同時表示

【B級映画】である。

《原芸術》《芸術》《反芸術》《非芸術》《無芸術》《世間体のアート》《形骸》《炎上》《崩壊》の
の概念梯子が有る

《原大衆芸術》《原イラストレーション》《原シンボル》の概念梯子が有る。

大衆映画である。

作品空間の意識の大きさが《グローバル》である。
《驚愕》という鑑賞構造が有る。
情報量が100である。
クリエイティヴである。

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この気体分子ギャラリーでのオークションの活動の中で、
《第200次元》までの作品を追いかけることが、客観的に良いかどうかは、疑問に思う気持ちはあります。もっと小さくまとまっているべきではありましょう。

しかし自分が面白いと言う感覚で言うと、この映画をはじめとして《第200次元》まであると見つけるものが、納得のいく表現ではあります。

コメントを書いてくださったnaさんは、次のように質問してくださいました。

彦坂様、200次元の発見にまで至った、という事は200次元の作品の制作に向かうのでしょうか?

毎日オークション参加者としては、素朴に楽しみであります。 
by na (2011-01-03 09:42)  


お答えは、YESです。
《第200次元》までの作品も作ります。
売れるとは思っていません。

美術作品に限りませんが、人間の文化の基本は、《第200次元》次元にはありません。そうではなくて《第6次元 自然領域》から《第1次元 社会的理性領域》の間にあります。それがオーソドックスな領域と言えるものであるのです。そこでの制作は重要だと思います。

だからこそ、それを超えた外部性が無いと、面白くはないのです。

《第200次元》までを見ようとする自分自身に、満足すると同時に愚かだとは思います。外部に向かってまなざしを広げていく、飽くなき運動は、最終的に、麻生三郎のように、多くの人には相手にされないような領域を見る事になるのです。そこはイラクの戦場のような殺伐とした世界と言えるのです。



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加藤豪

彦坂尚嘉様

最近の記事で多く、いわゆる「現実」のパラレルワールドとしての〈現実界〉についての言及がされていて、ここのところ興味深く読んでいました。世界をフラット(想像的に)に見るのではなく、いろんな次元が錯綜する多次元的なものとして芸術家は見るべきだというご意見を理解し共感しつつも、一方、ラカンの用語の〈現実界〉に相当するものが、美術の中で、これまでどのように扱われ、また語られてきたかを批判的に検証してみました。その結果は、私の答えは、彦坂さんのそれとは逆になります。いわゆるジジェクが言う所の「ポストモダンのドクサ」(S・ジジェク『戦争とテロル----〈現実界〉の砂漠へようこそ』青土社、P31)。象徴的な虚構として構築された現実を越えたもの、または外部としての「本当の現実」を直視せよ!と、むしろこれまで多くの人が語ってきたのではなかったのでしょうか。その衝動は、現代アートの歴史の中で、果てはチンポムにまで至る大きな流れとして中心的に形成されてきたというのが私の考えです。そのような外部を見る目(または外部からの目)を持つという芸術の側からの特権的主張は、9.11テロを芸術作品として見るシュトックハウゼンの発言により、ジジェクの表現を借りれば、「二○世紀アートにおける〈現実界〉(へ)の情熱のクライマックス」に達します。
しかし、私の考えでは、〈現実界〉とは芸術家が(または芸術の名のもとに)特権的に語るべきものでは元々なくて、むしろそのような特権を主張しそれにすがりつく限りにおいて、芸術は既に根拠を失っていると言えます。
〈現実界〉は、普段のわれわれの日常生活において、ある意味誰にでも見えているものでもあり、それは直視しがたいテロの凄惨な現場や暴力ポルノといった類いに限らず、たとえば今日学校に行きたくない、会社を休みたいと思い、魂がさまよっているような空間時間の体験、そういうところにも、現実界の砂漠はわれわれの眼前に光景として日々垣間見えている筈なのだと思います。そのような時間空間は、誰しもが知っているのであり、芸術家が上から教えるものではない。

そして、さらに重要なことだと思うので上記ジジェクから引用します。

だが精神分析が与えるここでの教訓は、まさにその反対である。精神分析は、現実を、虚構と勘違いしてはならない、というのだ。私たちは、私たちが虚構として経験することのなかに、私たちがそれを虚構化することにおいてのみ維持することができる〈現実界〉の堅い核芯を感得できるようでなければならない。(同書、P31)

つまり、たとえばある女性が、恋愛関係にある私に向かって、あからさまな自分のファンタジーを展いて見せてくるといった場面で、「そんなファンタジーはもうたくさんだ。つきあいきれないないよ馬鹿馬鹿しい。本当のリアルを直視せよ。」などと、もし思わずなじってしまったとしたら、当然の結果として、その恋愛関係は破壊される。
しかし、それは一体何故なのでしょうか。上記のジジェクを参照すれば、彼女が表すファンタジーという虚構を、単に軽いものとして扱ってしまえば、彼女がその虚構を大切にすることによってのみ維持される、本当にリアルな核芯までをも、私は台無しにしてしまう可能性があるということではないでしょうか。そのリアルは、彼女自身にとっても直視できないものであることと平行して、保持されるもの、確かに存在するものであるのだと私は考えます。これは、もっと一般的にも、言えることだと思います。

by 加藤豪 (2011-01-11 06:57) 

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